ユーリ - 春風
1

「寛子おばちゃん、今日はお休みだからお手伝いしにきたよ〜」



「蘭ちゃん、アンタちゃんと休んどるとね?私ちょっと心配やわぁ…」
「大丈夫だもん〜!おばちゃん、心配してくれてありがとう」
「そう?私らはそりゃもちろん助かるけど、あんまり無理しちゃいかんからね」



「ちょっと蘭。さっき蘭に髪切って貰おうって思って予約の電話したら、もう先の先まで予約でいっぱいですって言われたわ〜。アンタそんなに人気なんだね」
「あはは、真利ちゃんなら全然お家でするのに〜」
「ハァ?あのねぇ、アンタは一応プロでしょーが」

口調はぶっきら棒だが、さばさばとした性格の実は誰よりも優しい勇利の姉を、蘭は本当の姉のように慕っていた。

「私、雪掻きしてくるね!」
「滑らないようにしなよ〜」

早速つるんっと滑って思い切り尻餅を付いた蘭を見た真利は、可笑しそうにお腹を抱えてケラケラと快活な笑い声を上げたのであった。

*****

「いたた…」

お尻を摩りながら小さく息を吐くと、蘭の口元に白くもやが残る。しかし、それは舞い上がった雪と桜の薄紅色の花弁と共に、突風によって跡形もなく掻き消された。風が止むのを確認して雪掻きを再開しようとしたところで、遠くから聞こえるワンワンという犬の鳴き声を、蘭の耳が敏感に拾い上げる。

「?」

蘭はその鳴き声の聞こえた入り口の門の方向を見て、その目を零れ落ちんばかりに思い切り見開いた。目の前に見える犬はスタンダード・プードルで、迷いなく一直線に自分に向かって駆け寄って来ているのだ。その犬の姿を見て、蘭は一人目を見張った。

「ヴィ…ヴィクトル…?」
「ワフ!!」

どう見ても自分の知るヴィクトルでは無いのに、思わずその名前を呼んだら返事をしてくれることに、蘭は自分の涙腺が急激に緩むのが分かった。こちらへ駆け寄る勢いが増しているように見える。その無邪気な様子がまるで自分の記憶にあるヴィクトルのようで、蘭は箒を投げ捨ててその大きなプードルを胸の中に受け入れた。

「ヴィクトル!!」

大きな体格を誇る立派なスタンダード・プードルに突進された勢いで、蘭はせっかく道の端に寄せた雪に思い切り背中から突っ込んだ。掻き集めた雪は良いクッションにはなったものの、当然同時に蘭のお気に入りの真っ白のダウンがびしょ濡れになるが、そんなことを気にする蘭ではない。ヴィクトルの名を呼びボロボロと涙を流す蘭の小さな体にのし掛かっているプードルが、その頬に滴る塩水をペロペロと舐める。その言葉にし難い愛らしい仕草とこちらを見つめる円らな瞳がまた思い出にあるそれらと同じで、蘭の涙はより勢いを増してしまった。

そこに丁度、ジャージ姿の勇利が帰って来た。ランニングをして練習から帰って来たのであろう、その頬は僅かに上気し、額に汗を流している。

「ん?マッカチン、何してるの?」
「ヴィクトル…ヒック、ヴィクトルぅうう…」
「え…蘭ちゃん!ちょ、大丈夫!?」

倒れ込んでいる蘭に気が付いた勇利は起こそうと手を伸ばそうとするが、近付いてみると蘭がスタンダード・プードルのマッカチンを強く抱き締めている事に気が付く。勇利は慌ててマッカチンを引き剥がそうと駆け寄って、マッカチンの胴体を抱え込もうとするが、思いの外力が強くてビクともしない。
そこに、このプードルの飼い主が悠々とした足取りでやって来た。しかも、余りにも似合わないママチャリを押していて、そのベルをチリンチリンと鳴らした。

「勇利!マッカチンがどうかしたかい?」
「あ、ヴィクトル!助けて、マッカチンがどかないんだ…!」
「えっ!その下に人がいるのかい?」
「そうなんだ!早く!」


「マッカチン!おいで!」

良く通るその呼び声を聞いたプードルは蘭の上からひらりと飛び退き、そのまま勢い良く飼い主の方へと駆け寄って、その周囲をご機嫌にくるくると駆け回った。

「マッカチン、ダメじゃないか。いきなり人に飛び付いてはいけないって、最近でも何回も言っているだろう?」
窘めるその声に、プードルは「ワフ!」と元気よく返事をする。

ヴィクトルはヴィクトルはマッカチンの下敷きになっていた蘭に目を留めて──みるみるうちにその整い過ぎた顔に笑顔が広がり、その美麗な瞳をキラキラと輝かせる。


「ワオ!!勇利、その最高に可愛い女の子は一体誰だい?」
「あ…この子は僕の二つ下の幼馴染の東雲蘭ちゃんだよ。昔から、時間がある時にはゆ〜とぴあかつきのお手伝いをしてくれているんだ」
勇利はそう紹介しつつ蘭の腕を引いて立ち上がらせて、その全身に付いてしまっている雪を払う。白のガウンがすっかり水浸しになってしまっている。

「……」

蘭はその大きな目を、ゆっくりと一度だけぱちくりと瞬いた。その動作で、黒々とした長い睫毛に乗っていたまるでダイヤモンドのような大粒の涙が、宙に弾け飛ぶ。夕焼けに照らされたその神秘的な煌めきに、ヴィクトルは益々笑顔を深めた。

一方で、思いの外親しげに喋る二人を目の前に、蘭は自発的な身体機能の全てを一時停止していた。唖然とした蘭は暫くその場で動こうとはしなかった、否、動くことができなかった。勇利が気遣わしげにこちらを見る目に蘭ははっとして、かぶりをぶんぶんと振り、無意識のうちに止めてしまっていた呼吸を再開させる。
──テレビで見たことのある人物だ。いや、見たことがあるどころか、確か兄と慕うこの勇利の部屋に、この人物の大小様々なポスターが何枚も飾られていたはずだ。


「ッ!!!」

間違いない。この人は──あのヴィクトル・ニキフォロフだ。


「あ、蘭ちゃん。この人は、その、知っているとは思うけど…」
「わ、わわわ、私、帰るね!!」

駆け出そうとするが、雪解けで出来た水溜まりに足を取られそうになり、その二の腕を再び勇利に支えられた。

「何で逃げる〜?」

近寄って蘭のあかぎれだらけの手をそっと取る。

「俺はヴィクトル・ニキフォロフ!君の名前は何ていうんだい?」
「わ、わ、私は…蘭・東雲です…」

蘭は目の前に立つリビングレジェンドを見上げた。


──高い身長、すらりと細い長い手足。すっと通った鼻筋。きらきらと光る硝子玉の様な瞳、縁取る睫毛も長く、肌は陶器の様に滑らかで、艶々と煌めく指通りの良さそうな銀糸の髪は、彼が動く度にさらりと靡く。女性受けの抜群の高いルックス、低く伸びのある美声。それに加え、彼にはスケーターとして類稀なる才能があった。大会では、彼は当たり前の如くその頂点に立ち、観客を魅了し、大いに湧かせた。蘭はフィギュアスケートのことはあまり良く知らないが、そんな蘭でさえ度々テレビの目の前でその演技に釘付けにさせられた。

そうだ。つい一週間程前、彼の演技を中継で見た。あの拍手喝采を思い出す。彼を賞賛する声、褒め称える声。投げ入れられる花束。切られ続けるシャッター、眩く光るフラッシュ。その真ん中で、いつだって彼は微笑を浮かべていた。
あの時の微笑よりも幾分か緩んだ、にこやかで人の良さそうな笑顔が自分へと向けられていることに、蘭の頭の理解は中々に追い付かない。


「蘭っていうのか!とっても可愛い名前だね〜!それに、君自身もとても可愛い!」
グイと顔を寄せられて、蘭は勇利の背後に隠れた。

「もっとこっちへおいで?その可愛い顔を俺によーく見せて」
香水の上品な馥郁ふくいくたる香りがする。

「…ひ、ッ!!ッ、あ、…!!」

勇利の手を引いて、ゆ〜とぴあかつきの玄関を開け放つ。

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春風