ユーリ - 春風
1

勇利は、早朝から長谷津城の麓で一人黙々とトレーニングに勤しんでいた。トレーニングと言っても、スケーターにとっては最早日課のようなものだ。
動作を止める。上がった息をゆっくりと呼吸をすることで整えつつ、ふと風光明媚な雄大な景色を見下ろすように一望する。長谷津湾から吹き上げて来る爽やかな海風が、桜の花弁を舞い上げた。

「…長谷津に、戻って来たんだ」

声に出すことで、それを改めて自覚する。この田舎の穏やかで小さな町は、どうやら随分と人口も減ってしまったようだ。けれど、町は何も変わっていない。その変わらない風景が、今の勇利にとっては有難くもあった。


練習を終えて実家へとランニングをして戻ると、勇利の母である寛子がひょっこりとカウンターから顔を出して、にっこりと笑ってぶんぶんと手を振り、勇利を手招きをした。

「あ、勇利〜!蘭ちゃん来とるよ〜!」
「……えええっ!?あの蘭ちゃんが!?」
勇利が反応するよりも早く、パタパタと廊下を駆ける足音が近付いて来た。

──可愛らしい顔立ちの小柄な女性が、勇利を見てふるふると体を小刻みに震わせている。

「え、っと」
「…ッ!!」

勇利は、その女性が自分の幼馴染である蘭だと分かるのに、かなりの時間を要してしまった。自分の記憶にその面影はあるが、五年の月日はそれほど長く、女性の見た目を変えるには充分過ぎる程の時間である。


「ッ、勇利くん!!」
「わっ!えっ、蘭ちゃん?!」

蘭は勇利に思い切り抱き着いた。女性に耐性のない勇利にしては余りにも柔らか過ぎる二つの豊満な膨らみがその分厚い胸板にむにむにと押し当てられるが、そんなことを気にする余裕すら、今の勇利にはなかった。

蘭は勇利の胸にうずめていた顔を上げて、真上にある彼の顔を見つめる。この彼のことは欠かさずテレビで見ていた為もあってか、それ程久し振りに感じないと蘭は思ったが、少し背が伸びて体格も良くなったようだ。と言うよりも、少し太ったのであろう。勇利は、昔から太りやすい体質の上に食べることが大好き、しかも大好物がかつ丼──しかも大盛りと来たものだから、食事コントロールには昔から随分と苦労しているようであった。かつ丼を試合に勝った時のみご褒美として食べて良いと条件を付けたのは、一体誰だっただろうか。
そんな些細な事柄に月日の流れを感じるを得ない。勇利とばっちりと目が合うと、蘭はゆるゆると目尻を緩めた。まるで今にもとろけてしまうような柔和な笑い方だ。

「…お疲れ様、勇利くん」

その穏やかな笑顔を見て──勇利ははっと息を飲んだ。
すっかり忘れてしまっていた。この変わらない笑顔に、勇利は昔から元気を貰っていたのだ。

「蘭ちゃん…」
「あのね、勇利くん」
蘭がしっかりと目線を合わせる。その小さな体の全身から香る甘く芳しい匂いを胸いっぱいに吸い込んで、勇利はとても懐かしい気持ちになった。そうだ──この目に入れても痛くないくらいに可愛くて仕方のない妹分の幼馴染にも、もう五年も会えていなかったのだ。


「あのね…私ね、勇利くんはゆっくり温泉に浸かって、ゆっくり休んで、ゆっくり考えたらいいと思うの」

うるうると瞳いっぱいに涙を溜め込んで、しかしそれを決して溢すまいと一生懸命に潤ませて堪こらえる蘭の様子に、勇利は自分までどうしようもなく泣きたい気持ちが込み上げて来て、視界を少しだけ歪ませた。
けれど、妹分のような彼女に──今や妹として見るには、もうその容姿は成熟しきっていて、勇利の思い描く大人の女性そのものではあるが──あんまりに情けなさ過ぎる泣き顔を晒すのは、どうにも気が引けたのだ。と言っても、勇利念願出場のグランプリファイナルの結果はとうにこの小さな長谷津の町中のみならず日本全国、更に言うなれば世界にまで知れ渡っているため、きっと彼女にしてみれば全てお見通しだろうが、間近でそれをまじまじと見られるというのはやはり恥ずかしい。ぐっと唇を噛み締めて、涙が今にも落ちそうになるのを目元に力を入れて何とか堪えた。

そんな勇利を見て、蘭の垂れ目がちのアーモンドアイは表面張力めいっぱいに涙を溜めていたが、耐え切れなくなって堰を切ったようにぼろぼろと大粒の雫を零す。

「…ッ、ありがとう」

人が泣いている様子を見ると、何故だろうか、自分自身は冷静になることができる。勇利は自分の胸元に、静かに涙を流す蘭の頭を抱きながら、自分のこれからの将来についてを真剣に考えようと決意し、グッと唇を真横に引き結んだ。

この街を出て五年間、スケートのことだけを考えて、見ないようにしてきたことがいっぱいあった。
──僕は一人で滑って行く。その為に、何が必要なんだろう。

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春風