ユーリ - 春風
1

「蘭ちゃん!と、とと、止まって止まって!」

勇利の幾度に渡る静止の声にも聞く耳を持たず、蘭は勇利の手首を掴んだまま、細長い廊下の突き当たりにある勇利の部屋へと一目散に駆け込んだ。勇利を部屋に押し込んで、勢いそのまま襖を後ろ手に勢い良く閉める。

「ゆ、勇利くん!!な、なな、な、ななななな!!」
「蘭ちゃん、お、落ち着いて!!」
驚愕するあまりに言葉が上手く出て来ない蘭を、勇利は辛抱強く宥めた。勇利は蘭に数回に渡って肩で大きく深呼吸をさせるように促すと、蘭は大きく肩を上下させて漸く平静さを取り戻した。
意識を持ち直した蘭は、肩に手を掛けている勇利にそのまま掴み掛かる。その勢いの余りに、蘭の小さな体が勇利の胸に突っ込んだ。

「な、何で!!何でヴィクトルさんがここにいるの!?」
「アハハ…成り行き、かな?」
「どんな成り行きなの!!」
「そ、そっか。そう言えば、蘭ちゃんはSNSを一切していなかったよね…」

道理でこの一連の流れを知らないはずだと、勇利はアハハと乾いた笑い声を上げた。
勇利は蘭の二の腕を掴んでその体を引き離そうとするが、目の前の彼女の力が思いの外強いことに気が付いて苦笑する。瞳孔が開き切った必死の形相の蘭を宥めながら、勇利は少し視線を落とした。惜しげも無くその柔らかな二つの膨らみが押し当てられていて、勇利は顔に血が上りそうになるのを理性を総動員して堪えて思い切り目を逸らす。目の保養…間違った、目の毒だ。


──目に入れても痛くないくらいに可愛い可愛いこの妹分である幼馴染が、昔からそれらの類の事情について非常に気に病んでいることを、勇利はよく理解していた。小学生の頃、同級生の男子に揶揄からかわれてひんひんと泣いていた蘭を背中に守るようにして、勇利はよくその男子達を追い返していた。その時の勇利だって決して活発な方ではなく、友達も少ない所謂パッとしない男子ではあったが、それでも蘭を泣かす男は許さないと、まるで本当のお兄ちゃんさながらにことごとく蘭に集る虫共を追い払っていた。後々になって、男子が女子にちょっかいを掛ける理由が、暗に好意があることを示していたということを知り、あの時追っ払っておいて良かったと胸を撫で下ろしたことも未だ記憶に新しい。確かに今思えば、小学生の男子が特定の女子を苛める理由なんてたかが知れている。

その懸念は、蘭が勇利と同じ中学高校に無事入学してからもそれぞれ一年続いたのであったが、既にフィギュアスケーターの道を歩み始め多忙を極めていた勇利は、その時間が許す限り、男子中学生や高校生らしく下心満載で蘭に群がる男子共を人目を憚らず思い切り蹴散らしていた。その記憶が徐々に大きな傷跡となり、それっきり蘭は無意識のうちに男という生き物を猛獣か何かだと認識してしまっている。些か男性恐怖症のきらいがあり、なるべく自分からは積極的に関わらないようにしているようではあったが、勇利はその方が好都合だとさえ思っていた──要するに、勇利は俗に言われるシスコンだ。

「あ、やっと見つけた!」
「ヒッ…!!」

襖が開くスパーン!という小気味好い音と、まるで花が舞うような朗らかで楽しげなヴィクトルの声が、勇利の小さな部屋に響く。蘭はその姿を確認した途端、まるで未知の生物に遭遇したかのように顔を硬直させて、入り口付近からズザザザザッと素早く後退りした。部屋の奥の壁に背を預けたまま小さく体を丸めて、その自らの柔らかな二の腕をぎゅっと握り締める。緊張からか恐怖からか、何ならその手は少し小刻みに震えていた。
そんな蘭の様子など御構い無しに、そして勇利の静止の声など何処吹く風に、ヴィクトルは蘭の方へとその長く筋肉質の芸術品のような脚でずんずんと歩み寄って肩膝に肘を付いてしゃがみ込み、じっと目線を合わせた。

「ッ!!」

──ヴィクトルのパライバトルマリンが、蘭のセラフィナイトの瞳を射抜く。
南国の透き通ったグレートバリアリーフの如く、燦爛さんらんと輝きを放つ瞳に捕らわれたことで、蘭は再び全身が硬直してしまい、その場から身動きできなくなった。

それをいいことに、ヴィクトルは蘭の顎の下に人差し指をそっと掛け、半ば強引に顔を上げさせた。蘭は抵抗しようにも呼吸さえままならず、ヴィクトルにされるがままである。ヴィクトルの瞳の光彩は、見る角度により色が変わって見えたり、濃淡が変化するような二色性があることに、蘭は気が付いた。

「君は本当に可愛いね…!その上、魅力的で──蠱惑的こわくてきだ」
「ッ…!」

蘭の目の前が真っ暗に染まる。

その最後の言葉が、暗に自身のその豊満な肉体について言及されたということを、彼女は敏感に感じ取ったのであろう。何せ、その手の男からの慇懃無礼いんぎんぶれいな視線を、蘭はこの十数年間で文字通り嫌という程一身に受けて来たのだ。

「……ッ」

蘭は、小刻みに震える下唇をこれでもかという程に噛み締めた。涙がジワリと溢れ返り、瞳の表面に薄く膜を張る。短く切り揃えられた爪が掌へと深く食い込む。全身の血液が逆流するかのような、五臓六腑の内臓全てが煮えたくり震えるほどの憤怒。他人に対して怒りを露わにするという行為など一年に一度あるかないかという程の蘭は、この遣り場のない憤激を、拳と唇に託すしか方法を知らない。その力のあまり、そのどちらにも今にも血が滲みそうだ。プツリと唇の膜が切れた感覚と共に、ぶわっと粘膜に血が滲んだ。

そんな蘭の明らかに今までとは違う様子に、ヴィクトルが大きく目を見張る。信じられないようなものを見るような視線に、。蘭の薄く色の無い唇に、鮮血が酷く目立つことは当然であった。
それを見兼ねた勇利が口を開くよりも早く、蘭は先程までの様相とは打って変わって勢い良く立ち上がった。

「あ、蘭ちゃん…」
「…私、帰ります。勇利くん、またね」
「う、うん!!玄関まで送るよ!!あ、ヴィクトルはここにいて」

突如顔の色を全て無くした蘭に勇利は不味いと思ったが、こんな彼女に掛ける言葉か咄嗟には思い付かない。しかし、女性からそのような反応をされたことがこれまでの人生で一度もないヴィクトルは、そんな蘭の相貌に慌てふためいた。

「ま、待って!」
ヴィクトルの大きな手が蘭の細い手首を掴む──ゾクリと、蘭の背中を悪寒が駆け抜けた。


「ッ、やだ!!触らないで!!」

蘭はその手を力の限り振り解いた。目の前の相手が自身の眼光に怯むのが分かったが、それを抑え込むことができる程蘭は大人ではなかった。


「待ってくれ!!お願いだ!!」
そのまま走り去ろうとする蘭を、ヴィクトルの形振り構わない叫び声が呼び止める。

「ごめんね…俺、君に嫌な思いをさせるつもりじゃなかったんだ。本当に、ごめんね」

整った眉をこれでもかと下げて真摯に謝られると、気の強い性格とは真反対の位置にいるような蘭が、強く問い詰められるはずがなかった。唇を噛み締めすぎたせいか、呼吸と同時に口の中に血の味が広がり、その不快感に眉根を寄せて顔を顰める。

蘭はそのままヴィクトルから視線を外し、体を翻して廊下を駆け出そうとした。しかし、それをまたもやヴィクトルが遮ろうとしたので、それを見兼ねた勇利が静止しようと彼の大きな体に掴み掛かった。

「君は!!」
「ちょっとヴィクトル!!」
「君の名前は──蘭、この発音で合っているかな?」
ちらりと視線だけを彼に向けて恐る恐ると言ったように小さく頷くと、ヴィクトルはまるで花が綻ぶかのように微笑んで、そっと蘭の背中に向かって囁いた。

「蘭、お願いだ。また俺に会いに来て欲しい。待っているから」
「…ッ」

そのまま後ろを振り返ることなく、持ちうる限りの体力の全てを出し切って全速力で走る。背後で誰かが自分の名前を叫ぶ声が聞こえたような気がしたが、蘭はそれに振り返ることが出来なかった。
木造の手入れの行き届いた廊下を、旅館付きの駐車場を、雪が振り積もる橋を全力で駆け抜ける。蘭は何かを振り払うようにただただ走り抜け、決して立ち止まろうとはしなかった。頬に叩き付けられる凍える風、感覚がなくなってしまうくらいに悴む手足。運動には丸っ切り縁が無いせいで、ぜいぜいと呼吸器が悲鳴を上げる。それでも蘭は一度も立ち止まることなく、人目を憚らずに走って走って、漸く自分の住処であるアパートへと駆け込んだ。

玄関の扉を閉めて、そこに背をもたげてズルズルと地面に座り込む。びしょ濡れのダウンが汚れてしまうが、それを気にする余裕も今は微塵もない。

「ッ、う…ヒック、うあああ…」

──勇利くんは、嫌な思いをしただろうか。自分のお兄ちゃんのような存在の彼に、挨拶もそぞろにしたまま帰って来てしまった。
それに、彼が幼少期から憧れているトップスケーターを、あんな無碍に振り払ったのだ。きっと幻滅されているに違いない。

蘭はその夜、一人でしとしとと枕を酷く濡らした。自分の感情が分からなくなる──嫌悪、困惑、後悔。胸の内から湧き出す様々な感情が混じりに混ざり合い、どうすれば良いのかが分からなくなってしまったのだ。蘭はただただ幼子のように泣くしかなかった。

*****
翌朝、蘭はいつもの薄い化粧よりも少し濃くアイシャドウやコンシーラーを施してはみたものの、どう足掻いてもその瞼の酷い腫れは隠し切れるものではなかった。さらに、あんな状態では当然寝付けるはずがなく、明らかな寝不足の為に、目の下にはくっきりとクマも出来ている。
結局蘭は、仕方なくその悲惨な顔のままのまま出勤せざるを得ず、その顔を目の当たりにした職場の店長や先輩達全員を非常に心配させて、その日は朝から晩まで肩身の狭い思いをする羽目になったのであった。挙句の果てには、来店したお客様全員に心配されてしまい、更には常連さんに飴玉を袋ごとと焼き菓子を箱ごと貰ってしまった。

二つ年上の一番仲の良い先輩が、親切心で持って来てくれた薄手の可愛いらしいハンカチに包まれた保冷剤を、見事に腫れ上がってしまった目元に当てて、蘭は昨日のことを思い返して深く重たい溜め息を吐くのであった。

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春風