ユーリ - 春風
1

蘭が走り去って行った勇利の部屋には、酷く気不味く重苦しい沈黙が暫く続いた。
あの騒ぎを聞き駆け付けて来たのであろう、どこからともなくやって来たマッカチンが、ヴィクトルと勇利の二人を交互に見やる。心配そうにキュンキュンと鼻を鳴らす高く不安定な鳴き声が、重く沈黙ののし掛かる勇利の部屋に寂しく残響した。

ヴィクトルは勇利のベッドのマットレスの縁に力無く腰を沈ませて、額に手を当て深く項垂れる。髪をガシガシと掻き乱し、低く垂れた頭を抱え込むその姿からは、リビングレジェンドと謳われる彼の鮮麗ぶりは見る影もない。
それを見た勇利は彼の目の前に立ち、しゃがみ込んでヴィクトルとの目線を合わせる。気怠げに頭を上げたヴィクトルの視線が宙を彷徨うが、勇利はゆっくりと口を開いた。

「…ヴィクトル、蘭ちゃんを揶揄からかうのはやめて欲しい。いくらヴィクトルでも、それだけは許せない」

漸く、勇利とヴィクトルの視線が交わる。
ヴィクトルは、勇利の黒曜石のような瞳が、閑靜に燃えていることに気が付いた──憤怒の感情を、剥き出しの肌でピリピリと感じ取る。

一方勇利は、目の前の途方に暮れたようなヴィクトルに、内心酷く驚愕していた。
勇利からしてみれば、ヴィクトルは幼少期からずっと憧れ続けていた人間で、つまりはまだまだ全く現実味のない人間。人間の美しさを極め切った現実離れした容貌、その類稀なる才能で人々を魅了するリビングレジェンドと言わしめるスケート。

声も出ない程に、絶望しているのであろう。

「…って、は」
絞り出すような掠れた声だ。勇利は黙ったまま、視線だけでその続きを促した。

「揶揄っては、いないつもりだった。でも…きっと、彼女はそうは思わなかったよね」
「……ヴィクトル」

声に出したことで、改めて自分がどれだけ彼女を深く傷付けてしまったのかという恐怖を自覚する。ヴィクトルは絶望感で胸が押し潰されそうな気持ちになった。湧き上がった吐き気が胃の底から頭にまで広がる。
まるで懺悔するかのように、そっと両掌を合わせる。

ふととある可能性に気が付いたヴィクトルは、がばりと勢い良く顔を上げて勇利に恐る恐ると言ったように尋ねた。

「ッ!!──も、もしかして、蘭は勇利のガールフレンドかい?」
「ううん、蘭ちゃんはそんなんじゃないんだ。それに、言ったでしょ?俺にガールフレンドはいないって」
「ああ…そうだったね。ごめん、忘れてた」
動揺しているのか、

「勇利にとって、彼女はどんな存在なんだい?」
「うーん…。蘭ちゃんは、僕の大切な、妹みたいな女の子だよ」

頬を緩めて目尻を下げて笑う。

「ヴィクトルは、蘭ちゃんにあんなに

「…執着、かい?」
「」


「…心臓を」
「?」
「心臓を、撃ち抜かれたような気がしたんだ」


「貫通するようなものじゃない。彼女の血液の朱殷しゅあんの弾丸が、心臓の中心の奥深くに埋め込まれた」

「目の前の景色の全ての色が失われた気分だよ…」



「どうしよう、勇利…」

そこで勇利は、ヴィクトルが今にも涙を零しそうな程に溜め込んでいることに気が付いて、ハッと息を呑む。──陶器のようなその頬は、いつも降り積もったばかりの処女雪のように白いのに、今はフリープログラムを滑り終えた後のように薔薇色に上気して、銀糸がハラハラと掛かる耳朶もはだけた胸元も、仄かな桜色に染まっている。そんなあまりにも扇情的な彼の様子に、同じ男の勇利でさえどきりとさせられた。

「彼女の姿が、蘭の怯える姿が──この瞼に焼き付いてしまって、どうにもこうにも離れてくれそうにないんだ」

慄然りつぜんとした彼女の姿を思い返す。あの震える肩を抱き寄せ、自分の腕の中に閉じ込めたい。自分のものだけにしたい。その感情は、今までヴィクトルが感じたことのないものであった。

あれはきっと、ただの男嫌いの一言では済ませられない何かを感じ取っていた。そして、その上で彼女か勇利に対して何も言っていないということに、ヴィクトルは気が付いていた。
これでも、全世界の女性を魅了する色男の名を物にしているのだ。今回は手痛くしくじっているのではあるが。


──どうやら、世界中の女性を魅了して止まないリビングレジェンド、女性を意のままに操ることができる皇帝の本気の恋愛が始まろうとしているのかもしれない。
勇利は自分の心臓が激しく鼓動するのを感じて、胸に手を当てて服の襟元をぎゅっと掴んだ。


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春風