ユーリ - 春風
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──三月三十一日。
蘭は、掛けていたモップを片手に立ち止まって、真っ白な雪がしんしんと舞い散る窓の外をぼんやりと見つめ、思いを馳せた。ピカピカに磨かれて汚れ曇りの一切ない開放感溢れる大開口の窓硝子の外では、この時期にしては珍しく雪がかなり降り積もっている。どうやら、すっかり日が落ちたこの時間になっても止む様子も見られないし、この分だと今夜は例年に比べてもかなり冷え込むことであろう。店舗の中はエアコンが効いていてとても暖かいが、この身が凍えて縮こまる寒さでは、帰宅の途の際にはきっと手足の先がじんじんとかじかんでしまうことに違いない。

「……はあ」

何を隠そう。今日は、蘭の兄貴分の幼馴染であるフィギュアスケーター──勝生勇利が、五年ぶりに実家に帰省する日であった。


ふと、自分のあかぎれだらけの手に目を落とす。指先の皮膚が硬くなって突っ張っていて、また一昨日ひび割れが悪化して出血した部分が何とも痛々しい。シャンプーやトリートメント、ヘッドスパクリーム、カラー剤やパーマ液と様々な洗剤や薬剤を扱っているので、美容師は慢性的な手荒れとお付き合いする人も決して少なくはない。とは言え、今の自分の手は冬の乾燥も相俟あいまってかなり酷い状態だ。帰宅した後直ぐに皮膚科から処方されている軟膏を塗らなければと、より一層に肩を落とした。人に見せられたものではない。

蘭は、この仕事が何よりも大好きだ。お客様も大好きだし、先輩も店長も大好きであると胸を張って宣言できる。だが、いくら職業病だとは言えども、この手の状態だけが蘭の唯一の悩みと言っても過言ではない。


「勇利くん、大丈夫かなぁ…」

しかし、その悩みと同等くらいに、勝生勇利のことを蘭は心から気に病んでいた。あのグランプリファイナルから三ヶ月経つが、少しは元気になっているだろうか、体調は崩していないだろうかと、その心配は尽きることがない。仕事の合間にもふと我に返った時に、蘭は勇利のことを思って物憂げに溜め息を吐いていた。


ここ三ヶ月の間ずっと蘭の頭の中を専ら占めている勝生勇利は、日本中の期待を背負って出場したグランプリファイナルで、シニア五年目での初出場ながらに最下位という結果に終わってしまった。その結果を盛大に引き摺り、意気消沈したまま全日本選手権に出場し、またもや惨敗。全日本選手権はシーズン後半に行われる四大陸選手権、世界選手権の代表選考を兼ねた大会である為に、代表からも落選という結果に終わった。
蘭からしてみれば、グランプリファイナルに出場できただけでも充分に凄い偉業だと思うのだが、どうやらそうも言ってはいられないのが、更なる高みを目指すこの氷上の勝負の世界というものらしい。呑気な自分にはこれまでもこれからも無縁のものだと、蘭は再び溜め息とともに目線を靴の先へと落とした。


「蘭ちゃーん!吉永さんからご指名のお電話貰ってるけど、一ヶ月後の金曜に入れて大丈夫?いつも通りパーマとカット、それに今回はカラーもお願いしたいって」
「あ、は、はい!大丈夫です!」
店長からの呼び掛けで意識を取り戻した蘭は、再びモップを握り直して床磨きを再開させるのであった。

──蘭が働いている店は、“la plus belle”という、この長谷津の町唯一の美容院である。数年前までは何軒かあったチェーン店の美容院や、お爺さんが一人で切り盛りしているような個人経営の理髪店もそのどれもが、客の入りが芳しくなかったり、年齢による退職で店仕舞いを決断したりとしているうちに、長谷津に残った美容院はここ一件になってしまった。
その為もあって、来店する客の年齢層も幅広く、老若男女問わずに気軽に施術可能な店の雰囲気と価格帯で、長谷津のみならず佐賀県内でも有名な美容院となりつつあった。


すると、備品の発注の注文書を作成し終わったのであろう、蘭の二つ年上の男性の先輩が、蘭の隣にひらりと身を翻してやって来た。何故か耳元でぽそりと囁かれ、蘭はびくりと一瞬肩を震わせた。

「なあ蘭ちゃん、今日の夜一緒にご飯食べに行かない?」
「あ…その、ごめんなさい。今日は見なきゃいけないテレビがあるので」
「えー、この前もそうやって断ったよな?」
「ご、ごめんなさい…」
蘭は、こうして事あるごとに誘ってくれる先輩にはとても申し訳ないとは思っている一方で、この先輩には少しの苦手意識を抱いていた。

「ちょっと!いくら蘭ちゃんに言い寄っても無駄よ、無駄!蘭ちゃんには勝生くんっていうお似合いの彼がいるんだから!」
「!!あ、あの、私と勇利くんは別にそんな関係じゃなくって…」

蘭が眉を下げ俯いて返答を考えあぐねていると、同じく二つ年上の蘭と一番仲の良い女性の先輩が助け舟を出してくれた。それが些か違う方向に勘違いをしていることは、この際あまり触れないでいようと蘭は眉を下げて苦笑した。

「えー、でもアイツこの前の試合で負けてたじゃねーか」
「だーかーらー!あれは全世界でたった六人だけしか出場することが許されない、フィギュアの世界最高峰の戦いなの!出場できただけでも素晴らしいことなのよ!ね、蘭ちゃん!」
「…はい。私の、自慢の幼馴染です」

──そう。自分は何があっても彼を笑顔で出迎えると、五年前からそう決めているのだ。こう落ち込んでばかりいてはいられない。

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春風