ユーリ - 春風
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その日も無事退勤した蘭は、帰り道の浅く雪が降り積もる路上で大急ぎでスマホを起動させた。しっかりと靴の底で雪を踏み締めて滑らないようにと気を配りつつ、ゆ〜とぴあかつきの家の方の固定電話へと電話を掛ける。
数回のコール音の後に、「はーい、蘭ちゃん?」と聞き慣れた声が耳に飛び込んで来た。

「あ、寛子おばちゃん!こんばんは」
「あら〜蘭ちゃん!今日もお疲れ様やね〜!」
「ふふ、ありがとう。その……勇利くんは帰って来た?」
「そうそう、今日の四時頃帰って来たとよ〜!さっきお風呂に入って、また出掛けたとこやけん!」

勇利の母である寛子の声も、どこかいつもよりも嬉しそうで、蘭は自分まで気持ちが明るくなるような気持ちになり、口元をゆるゆると緩ませた。五年間全然帰って来なかったと言っても電話で話をしていたし、テレビ放送がある時は姿は見ていたけれど、やはり実際会うのと会わないのとではきっと全然違うのであろう。

「……」
しかし、言葉が出て来ない。あれも言おう、これも言おうと、あれだけ散々頭を抱えて悩み考えあぐねていたはずなのに。
そんな蘭の心情を見越したかのように、電話越しの寛子は穏やかに言った。

「もう、大丈夫よぉ!蘭ちゃん、私らは勇利のことはゆっくり見守ってあげたらよかよか」

流石は、あの心優しくて芯の強い勇利を育て上げた母親だ。その全てを包み込むような穏やかな優しさは、今は失意の底にいるであろう勇利も、きっとその内立ち直れることに違いないと蘭は確信した。

「…うん、そうだよね。勇利くん、昔から意外と負けず嫌いだもんね」
「そうそう!今も練習行く言うて行ったけん、大丈夫に決まっとるね〜!」
「え!勇利くん、帰ってきてすぐなのに練習行ってるの!」
それだけを聞くと、思っていた以上に立ち直れているのかもしれないが、蘭は勇利のメンタル面の弱さを知っている為に何とも言えない。

「…寛子おばちゃん、私、また明日行くね。利也さんにも、あんまり腰無理しちゃ駄目だよって伝えておいてね。重たい物があったら、私また運ぶからね」
「ありがとうね、蘭ちゃんも明日は温泉入らんね!」
「…うん。明後日はお休みだし、明日は久し振りに入らせてもらおうかなぁ」

歩きながらの寛子との電話を終えると、蘭は大急ぎで自分の住むアパートへと、慣れた道を足早に帰った。

*****

凍え切った体をお風呂に入れて、ゆっくりと時間をかけて温めて、ほかほかになった蘭は幸せな気分に包まれた。お気に入りの入浴剤を使った効果は抜群だ。
髪を乾かし終えた蘭が、いつも通りにテレビの電源を点ける。すると、ちょうど世界フィギュアスケート選手権男子フリーを中継が映されていた。──世界フィギュアスケート選手権男子ショートプログラム一位発進は、最早突然の如くロシアのヴィクトル・ニキフォロフだ。

「やっぱり、この人が一番なんだ…」

今日の少し遅めの昼休憩の際に、何気無く目にしたテレビで掛かっていた中継を思い出す。テレビから流れていたのは、勇利の出場が叶わなかった世界選手権の映像だ。コーチと共に会場へと入るヴィクトル・ニキフォロフをカメラがズームアップすると、それに気が付いた彼はサングラスを外し、ばちんっと華麗にウィンクを決めていて、蘭は自分に向けられた訳ではないと頭では分かっていてもドキリとさせられたのだ。事実、入り待ちをしていた報道陣やファンの女の子達は、皆一様にそのウィンクに目がハートになりメロメロになっていた。

『グランプリファイナルに引き続き、ロシア選手権、ヨーロッパ選手権と連覇!変わらぬ調子の良さを見せています!』

選手生命の短いスケート界のトップを今でも走り続けているのは、本当に凄いことだ。あの華やかさの裏で一体どれほどの血と涙の滲む努力をしているのか、その辛さは経験者ではない蘭とて流石に判るつもりだ。


ぼんやりとその様子を思い返していると、丁度最終滑走が始まる実況が耳に入った。

『世界フィギュアスケート男子フリー。さあ、最終滑走はロシアの英雄ヴィクトル・ニキフォロフです』
代々木第一体育館、会場全体が揺れ動く程の大歓声が彼を迎える。この大会で金メダルを獲得すれば、彼は世界選手権で五連覇という前人未到の大偉業を達成することになるのだから、注目度は各方面からも更に高まっているのであろう。

リンクの中央で一人瞼を伏せて立つヴィクトルは、王者の貫禄と気品を全身に纏っている。彼はそこにいるだけでを圧倒し、同時に人目を一身に集めることに成功していた。
音楽が流れ、ヴィクトルの演技が始まる。

『このプログラムには、四回転を四本用意しています。さあ!まずは、最初の四回転…!四回転ルッツ、綺麗に決まりました!』
フィギュアスケートのことを全く詳しく知らない蘭ですら、この技の難易度が相当に高いことくらいは充分に分かった。

『さあ二本目は、ヴィクトル・ニキフォロフの代名詞…どうだ、四回転フリップ!!これも決めた!!』
「すご、い…」

近所に住むバレエ講師のミナコ先生曰く、彼は今季のフリーも大胆な演技構成で攻めているのだと蘭は聞かされていた。ジャンプが決まる度に歓声と大きな拍手が聞こえる。彼の完璧な演技に、その場で氷上の奇跡を目の当たりにしている観客も、画面の前で中継を見ている人も、全世界の人間が皆見惚れていることであろう。

フライングシットスピン。異性を感じざるを得ない立派な筋肉を纏う美しい身体の線に、蘭は自分が見惚れていることに気が付いて、ほんのりと頬を染めた。

『曲は、離れずにそばにいて。ヴィクトル・ニキフォロフの新たな一面を引き出したプログラムです』
「……離れずに、そばにいて、かぁ」

恋愛という恋愛をしたことがない自分には到底無縁のものだと、蘭はハァ…と深く溜め息を吐いた。様々な経緯と事情があって──蘭は男性が苦手だ。

『さぁ、最後の四回転…!四回転トゥループ、トリプルトゥループ決めましたー!!四回転全て着氷!!さあ、そして、コンビネーションスピン!!』

誰もが、彼の演技に圧倒された。この世界選手権でも彼の金メダルは間違いないと、全世界中の人類が確信するほどに──完璧な演技。

演技が終わった。
拍手喝采。湧き上がる歓声や雄叫び、スタンディングオベーション。リンクへと投げ入れられる花束や人形などの数え切れない程のプレゼント。

その真ん中で悠々とお辞儀をするヴィクトル・ニキフォロフの姿は、同じ人間だとは思えない程に神々しいと蘭はその眩しさに思わず目を細めた。


『世界フィギュアスケート選手権、男子シングル優勝は大会五連覇、ロシアのヴィクトル・ニキフォロフです』
「来シーズンへの抱負をお願いします!」

その後のインタビューの会見で、焚かれる眩いフラッシュに蘭は目を瞬いた。
しかし、五連覇という輝かしい偉業を達成したにも関わらず、彼の表情が優れないことに蘭は気が付く。

「……?」
輝かしい栄光を勝ち取ったはずにもかかわらず、その顔に笑顔はない。これが、勝ち続ける者の苦悩というものなのだろうか。

蘭はその夜、何故か彼の演技と会見での表情が頭を離れないまま、ベッドで眠りに就いた。

*****
彼が味わっているのは、誰よりも素晴らしい眺めだろう──だなんて、見当違いにもほどがある。

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春風