自分の部屋で少しだけ身なりを整えてから隣にある彼の部屋を訪ねる。扉をノックして彼の反応を待てば程なくしてドアが開かれた。人に紛れている時の服装ではなく、普段の服装バアルさんが私の視界に映りこんだ。
 何も言わずに室内へと通される。私と違い荷物は殆どしまったままでいるようであまり最初に入った時の部屋の印象とほぼ変わっていない。ハンニバルさんは引っ込めてしまっているのか姿は見当たらなかった。

「落ち着いたか」
「…え、あぁ。えっと、」
「目元は少し腫れてしまったようだが」

 部屋の奥まで来るとふいにバアルさんはそう訊ねて来た。どう返すべきか、と悩んでいるとバアルさんの手が伸びてきてわたしの目尻をなぞる。彼の親指がとても優しく撫でるので私の胸がどきり、とざわつく。

「後で冷やしておけ」
「わ、わかり…ました」
「何か用があってきたんだろう」

 バアルさんは先ほどのことをまったく気にしていないような口調だ。おそらくそのほうが私が楽だろう、と思ってくれているのかもしれない。
 私はもう一度呼吸を整えておそるおそるバアルさんが触れてくれているその右手に手を伸ばした。包むように両手で触れればぴくり、と彼の手が止まる。

「さっきはごめんなさい。心配させちゃったかなと」
「別にいい。初めて感じるものに困惑をするのは当たり前だ。心配もメドゥーサが保護したと聞いて特にしていなかった」
「…そう、ですか」

 なんというか思っている以上にバアルさんは冷静でいたようだ。さすがだな、と苦笑してしまう。

「バアルさんの言葉の意味、なんとなく理解することができました」
「…そうか」
「だからちゃんと言いたかったんです。…私のしたいことや、気持ち」

 彼の手をそっと降ろして視線を顔へと向ける。バアルさんは静かに私の言葉を待ってくれた。

「あの時は貴方の顔色を窺った言い方をしてしまった。でも本当は一緒に居たい、って思いました。今はその、迷惑承知の上で話してますけど…」
「……」
「私、探してる物があるんです。それを探すのは諦めてません。でも、それはバアルさんと一緒がいいんです。一人じゃなくて、他の誰かでも駄目で。…その、えっと、」

 言葉が難しい。いや、言えばいい言葉というのはわかっているのに何故か紡ぐのに億劫になっていた。一呼吸を置く。途切れ途切れだというのにバアルさんはちゃんと私の言葉を聞いてくれていた。

「星晶獣の私がこんな気持ちを抱くのは変かもしれないし、星晶獣の貴方に言っても迷惑になるのかもしれないけれど。私、きっとあなたの事が好き、なんです。もっと貴方を知りたいし、いろんなことを共有したい」

 思い浮かぶジータさん達の姿が私の言葉を後押ししてくれた。言葉にできて大きくため息をついてしまう。好き、という気持ちはこんなにも伝えるのが難しくて、苦しくて、ふわふわした気持ちになるんだな。経験しないとわからないものだ。書物だけじゃ絶対に識れない。

「"好き"か…」
「べ、別にバアルさんにそういう気持ちを抱いてほしいなあとかそういうのじゃないんです!ただ、そういう理由で一緒に居たいなっていうのを知っててほしいだけで…」
「ナマエ」

 思わず早口になる私をバアルさんは静かに落ち着かせる。言葉を呑んでバアルさんの反応を待てば彼は私から手を離して再び私の顔に触れる。今度は目尻ではなく頬を撫でた。

「お前は俺に"一緒に居ていいか"そう聞いたな」
「はい…」
「お前の意思は"居たい"と言った。だから俺の意思も伝えておく」

 真剣な表情で、けれども視線は前よりも鋭くない。棘がない、そんな雰囲気のままバアルさんは言葉を続ける。

「俺も居て欲しい、と思っている」
「…っ」
「お前がいなくなってメドゥーサと合流したのはすぐに判った。このまま俺と居るよりもアイツの所に居た方が楽なのかもしれない、と少し思った」

 バアルさんも同じように一息つく。お互い思いの丈をぶつけることには慣れていないので仕方のないことだ。

「だが同時に今の生き方が変わるのは少し気が引けた。お前の旋律メロディーを聞けなくなるのは…何処か物足りない」
「バアル、さん」
「この夜お前が戻ってこないようなら向こうに乗り込んでお前が話すのを諦めてしまったその気持ちを俺が読み取ってその旨で意思を伝えてしまおうと考えた」

 彼には隠し事をしたところで意味はない。見透かすことができる能力を持ち合わせているからだ。確かに私はあの時その力と使ってくれればいいのに、とも考えていたからバアルさんが頑なに使わない理由がわからない。バアルさんは首を緩く横に振る。「だがそれはできればしたくなかった」そう告げた。

「意味がないからだ。そのような形で得たところでまた綻びが生まれる。お前が自分の意思と向き合わない限りは」
「だから、私を敢えてジータさん達の所へ?」
「……メドゥーサが入れ込む程の騎空団だ。何かお前にも影響を少なからず与えてくれる、と踏んだ。結果的に良い影響であったようだ」
「…ふふ、やっぱりメドゥのこと信頼してるんですね」
「……それなりに付き纏われていると判りたくないものも判る」

 メドゥに対しての相変わらずの尖りに少し笑ってしまう。けれどバアルさんの言葉が嬉しくてたまらなくて、私はまた別で頬が緩んでしまっていた。こんなにいろいろと私の事を考えてくれていたんだ。わたし自身の成長も、気持ちも私以上に。かなりの世話焼き、なんてナタクさん達に言われていたけどやっぱりその通りだ。
 
「ありがとう、バアルさん」
「…別に礼を言われることはしていない」
「でも、言いたいので。ちゃんと気持ちを伝える、でしょ?」

 私がそう言えばバアルさんはフッと笑う。くしゃり、と私はバアルさんに頭を撫でまわされた。

「…俺はお前のいう"好き"というものがどういうものかはよくわからない」
「…そ、それに関してはさっきも言ったけど、」
「だが俺達には時間は山ほどある。…それを知るのも悪くはなさそうだ」

 私だってまだ完全にわかったわけじゃない。したことのないものだからしょうがないのだ。
 だけど彼の言う通り私達星晶獣は他の人間達とは違ってたくさんの時間を有しているのだから、少しずつでもいいから理解をして、そしてしっかりと自分の中にあるこの気持ちがちゃんとしたそれだとわかったときには、改めてもう一度告げようと思う。その時はバアルさんの気持ち、というのも聞いてみたい。

「あの、これからもよろしくお願いします。バアルさん」
「…あぁ」

 私達の時間はまたゆっくりと動き出した。