帰ってきた彼と……
微かな音が遠くから聞こえた気がした。先ほどまで不思議な夢を見ていた感覚が今でも残っていて、現実に引き戻された。瞼を開けると、廊下から光が漏れ出ていた。
「なぎさ、くん?」
重たい体を起こして彼の名前を呼ぶと、帰ってきた彼が寝室にいた。覚醒しきっていない頭でなんとか声をかける。
「……ただいま。ごめんね、起こしてしまったみたい」
「おかえり。大丈夫だよ」
枕元にある置き時計に視線を向けると二時になっていた。こんなに遅い時間に帰ってくるのは珍しい。
「今日はお仕事遅かったね? お疲れ様」
「ありがとう」
時計やアクセサリーを外して、髪を解く。そんな彼の姿を眺めていると、徐々に頭が動いてくる。
「あっ、ご飯もう食べた?」
「……移動の時間に少しだけ」
休む暇もなかったのだろう。食事をする間も取れないほど慌ただしい日だったのかもしれない。
「まだお腹は空いてる?」
「あまり」
「そっか、じゃあお風呂沸かすね」
「私がやるから大丈夫だよ」という言葉が耳に入った気がする。が、眠っていてもわかるくらい、外の風の音が室内にまで聞こえていた。寒かっただろうからすぐに沸かしてあげたい。
おぼつかない足取りでお風呂に向かい、追い焚きのボタンを押す。彼が来るまでに沸いてくれればいいが、私が入ってから数時間経過しているため温まるまで時間がかかってしまうだろう。
じっと脱衣所で待っていると規則的に聞こえるお風呂の機械音が妙に心地よく、知らぬ間に瞼を閉じてしまう。カクッと頭を動かすと、目が覚める。それを何度か繰り返していると、脱衣所に来た彼が私の様子を見て心配をしていた。
「私が見ているから、もう大丈夫だよ」
「……凪砂くんのこと待ってたの」
「ふふ、そう」
嬉しそうな笑い声が頭の先から聞こえた。ひんやりと冷たい彼の指が頬に触れる。瞼を閉じながら彼の触れる指に身を任せる。
「可愛いね、ナマエちゃん」
「んっ、そうかな……」
「うん」
心配になるほど冷たい指先を温めたくて無意識に手で包み込むと、そのまま引き寄せられてしまう。驚いて目を見開くと、ご機嫌な様子でちゅっちゅっと口付けられた。彼に私の行動の何かが響いたことだけはわかった。
悪戯をするように何度も頬に口づけられると擽ったいが、眠気が治らない今は何をされても抵抗する力もなければ、むしろ彼の優しく触れる唇が心地いい。
まるで夢でも見ているように頭も視界もふわふわとしている。妙な高揚感が押し寄せてきて、彼の首元に手を掛けて踵をあげて爪先で立つ。
不意にお風呂が沸いた音が流れる。弾かれたように二人の空気を壊される。間が悪いとでも言いたげに顰め面をした彼が可笑しくて声が漏れる。
「お風呂、沸いたよ」
私の声は届いているはずなのに、なかなか離れてくれない。眉尻を下げて懇願するような表情をされてもこのまま冷えた彼を放っておくことはできない。
「凪砂くん」
「…………わかった」
眉間に皺を寄せながら不機嫌な表情を浮かべる。コロコロと変わる彼の様子に思わず頬が緩んだ。
「……笑うこと? 私は真剣なのに」
「ふふ、ごめん。凪砂くんが上がるまで待ってるから、早く温まっておいで」
その言葉を聞いた途端、パッと明るい表情になったかと思えば早々とドアを開けて行ってしまった。
うとうととしながらリビングで彼を待っていると、シャワーの音が部屋に響く。先ほどまでは一人だった家に彼がいるだけでこんなにも温かく感じるんだと心が満たされた。
明るい日差しを感じて、目が覚める。
いつのまにかベッドに移動していて、彼の隣で眠っていた。最後に覚えているのはソファに座っていたことだけだった。どうやらあのまま眠ってしまっていたらしい。
「……おはよう」
動いたからか、彼を起こしてしまったらしい。
「凪砂くん、おはよう。もしかして昨日の夜ベッドまで運んでくれた?」
「うん『お安い御用』」
「ふふ、何それ」
私が笑ったのを見て、ふにゃっと笑いながら再び眠りについた彼。夜遅くまで頑張ったのだからまだ眠いのは当たり前だ。彼の乱れた髪を梳かすように撫でると、唸り声を上げながら私の手に彼のそれを重ねた。昨日の夜とは違って温かく心地良い彼の体温に、私も再び眠気に襲われた。