04
台本を手にしてからの彼は、見違えるように成長していった。
「……最近は、この台本のおかげで偶像(アイドル)になれている気がするんだ」
嬉しそうに微笑む彼。以前はここまで生き生きとした表情を浮かべることは少なかった。それを七種くんが変えたのだろう。
「七種くんとはうまくいってる?」
「……うん。私は話すのが苦手だから、茨が代わりに話してくれるとありがたい」
「よかった。今の凪砂くん、すごく楽しそうだよ」
「……そう」
『楽しい』という感覚。今はまだ彼の中でふわふわと漂う感覚かもしれないが、いずれ明確になってほしい感情だ。
彼の成長はアイドル活動が活発となったという意味もあるが、彼自身にも少しずつ変化が見られていた。
「……今日は街でパワーストーンのお店を見つけたんだ。車の中から見ただけだから今度入ってみたい」
こんな風に今日あった新しい出来事や関心を持ったものについて話してくれるようになった。以前の彼ではあり得なかった。
七種くんによる凪砂くんのブランディングは成功したと言えた。当の本人も迷っていた中ではっきりとした道筋が生まれたことに満足していたようだった。私もそんな彼を見て胸の奥にしまっていた不安はすべて杞憂であったことが分かり安堵していた。
彼が話す一日の出来事は、以前とは打って変わってプラスなことが増えていた。消極的な内容が多かった話し方も生気の充ちた明るい内容ばかり。彼が過去に囚われ、今に絶望するのではなく、未来の話をしていることが私にとってこの上ない喜びだった。
その一方で、過去の痛い経験は彼の心を少しずつ蝕んでいた。時折、悲しい表情をしていることがあったからだ。苦しみを分け合うことは到底できないが、少しでも彼の心を晴らすことができるよう、辛い気持ちを放出する術を私は教えてあげたかった。
それが顕著に現れるのは夜だった。静寂な夜は彼の不安を煽っていくようで空いた穴を大きくしていった。
「凪砂くん、まだ起きてたの?」
夜遅くになり、帰宅した後にやることを済ませると既に0時を回っていた。寝る時間になっても、こうして寝室では灯りをつけてまだ起きている。
寝室に入ると彼がベッドに座って一点だけを見つめていた。そんな様子の彼を見ていると心苦しかった。
ドアを閉めると私が来たことに気づいた彼。それでも光の入らない瞳をしていた。
唇をきゅっと結んでしゃがみこむと、俯き気味の彼の顔を覗き込んだ。冷たくとも、体温を持つ手に触れて、彼に語りかけた。
「あのね。凪砂くん。辛い時は泣いてもいいんだよ」
何も言わない彼は、私が突拍子のないことを言っていると思うだろう。でも彼をずっと見ていた私にはわかった。彼の痛みも、悲しみも。だから、彼に『涙』を教えたかった。
「……泣く?」
「うん。心が痛い時、どんな風に感じる?」
「……胸が張り裂けそうに痛くて、言いようのない喪失感に駆られるかな」
「目の奥はツンって疼かない?」
「疼く」
「そういう時は、険しい表情を解いて、力を抜くの。こうやって――」
力を抜いた表情を見せる。彼の頬に手をあてて真似するように促すと肩の緊張を解いて私の手に擦り寄った。
瞼を閉じると一筋の痕を作って涙が伝う。彼の涙は初めて見たかもしれない。涙を流すことすら知らない彼に、私の胸もズキンと痛んだ。瞼を開いた彼が困惑する。
「……どうして君も泣くの?」
どうやら私も自然と涙が流れていたようだった。
「凪砂くんのことを、愛してるからだよ」
共感。というのはこういうことを言うのだろう。決して私が経験してきたことではないし、彼に直接何かを訴えかけられたわけでもない。私が彼の痛みを感じ取ってしまった。ただそれだけのお節介な感情だ。
愛してるという言葉を聞いた彼は満足そうに微笑んだ。
「……君の涙は綺麗だね」
そう言って指の背で私の流す雫を拭ってくれた。それが私には嬉しくて心が温まる。私の泣く姿が綺麗だなんて、彼の方がよっぽど綺麗だというのに。
「涙を流すとね心がリラックスするんだって。泣くことで自分の気持ちにも気づいてあげられるの。
凪砂くんは今、とても傷ついていて、それを心の奥底に閉まっている状態。でも涙が流れると、悲しいんだな、寂しいんだなって気づけるんだよ」
「……そう。涙を流すことに利点を見出せなかったけど、大切なことなんだね」
「うん。だから、無理して感情を抑えなくていいんだよ。泣くことが恥ずかしいって思うひともいるから、もし凪砂くんが他のひとの前で泣くことができないのなら、せめて私の前では力を抜いてほしいな」
こくりと頷く彼は同意ということだろう。彼の住むこの家が彼の気が休まるような場所になってくれればいいという、ほんの些細な願望だった。
「……ありがとう」
こちらこそ、というのは最善な言葉ではない気がした。彼に感謝したいのは私の方だが、それは今ではないから。彼の心の成長に繋がるのであればそれでいい。そう思えた。
無機質なはずの冷たい部屋は、彼にとって確実に温かく心地よいものへと変わっていた。