03

 彼の傷ついた心を癒してあげることは難しいかもしれないが、必要な経験も感情も、許されるのなら私が日常の中で教えてあげたいと考えた。
 夢ノ咲学院で得た彼にとっての悲痛な経験は深く、彼の心を突き刺していた。
 そして、彼が秀越学園に通い始めてから数か月が経とうとしていた。送り迎えは七種くんが車を出してくれるおかげで毎日決まった時間に帰宅する。彼が勝手に発掘などに行って帰ってこない日もしばしばあるけれど。興味を持ったことに取り組んでいても、日和くんと二人でアイドルごっこをしていた時とは違って今の彼からは覇気を感じられなかった。

「凪砂くん、学園は楽しい?」

 石を観察する彼は、硬い表情で体温さえ失われてしまったように見える。まるで空虚を見つめているみたいだ。

「……『楽しい』という感情がよくわからない。この世は楽しいことで溢れてるのかな。そうは思わない。私は喜びを感じてもいい存在だとは思わないから」

 彼の言葉はとても寂しい。自身が嫌いで、自身に興味がない。そんな彼が不安定で、そして脆くて心配だった。私に興味を持ってほしいとは言わないから、無頓着な自身への感情をどうにかしてあげたい。

「じゃあ、今日は何か感じたことはあった?」
「……秀越学園はわかりやすい構造。強者と弱者、はっきりと分かれている。それが私にとっては悲しい」

 優しい彼は人が苦しむ姿を目の前で見ていていい気はしないだろう。次第に頭が下がり、鬱々とする様子を見ていると心配だ。暗い雰囲気を漂わせる彼に、私の気持ちも少しだけ曇る気がした。このまま気持ちを沈むところまで沈めてしまうのは良くない。

「……顔上げて?」

 そう言って彼の頬を包み込んで上向くように促すと、言われるがままに私の目をじっと捉えた。

「凪砂くんは幸せになってもいいし、私は凪砂くんに幸せであってほしいの。だから、今は凪できることを精一杯やろう」

 我ながら強引な話だ。それでも、これ以上重暗い話を続けていると彼が今すぐにでも消えてしまいそうで怖かった。

「……うん」

 悲痛な表情。一見何も考えていないと思われる彼の感情の希薄さは損をする。冷たいひとだと思われてしまうから。こんなにもひとのことを想い、苦しんでいるのに。今にも泣きそうな表情なのに、彼の涙は流れない。
 今の彼に何を言っても偽善にしか聞こえないだろう。
 私が悲しい表情をしてはダメだと聞かせて口角を上げる。彼にも笑ってほしいから。すると、鏡のように彼も微笑んだ。
 目を細める姿に安心して彼の頭を優しく撫でた。髪を梳かすように滑らせると、彼がそれに反応して掌を重ねた。それに集中するように瞼を閉じて穏やかな表情をしていた。
 落ち着いた様子の彼に、質問を投げかける。彼がいつも心の中で考えていて誰にも言わないことを打ち明けてほしいと思った。

「そうだ。何かしたいことはある?」

 前向きな質問を投げかけたつもりが、彼は深く考え込んでしまい、目が再び虚ろになった。「ごめんね」という言葉を飲み込む。

「……わからないんだ。以前までは簡単だった。どうすれば『父』が喜んでくれるのか、夢ノ咲学院で私は何をするべきなのか、明確な目的があったから」

 私の手をきゅっと握りながらぽつぽつと言葉を溢す彼。彼の悩みの根源は『迷っている』ということだった。今の彼はどこに行けばいいのかがわからない、迷子の状態だ。アイドルとしての彼が損なわれないように、何か明確な道標が必要だ。しかし、私にはアイドルの彼を導いてあげられるような力はないし方法も浮かばなかった。彼の悩みは私の悩みともなった。


 そんなアイドルとしてどうすればいいか、何を目指せばいいのか迷う彼に、七種茨くんは彼を利用するための術をいつの間にか提示していた。

「台本?」
「……うん。茨が作ってくれていて」

 彼が新しいユニットになってから、七種くんにアイドル乱凪砂として活動するために話す言葉を決めてもらっているようだった。
 普通なら、台本通りにずっと話すなんて不可能に近い。ましてやひとに貰った台本なら尚更だ。しかし、凪砂くんは違う。何でもこなすことができる彼は台本を与えられても完璧にこなすことができる。彼だからできる技だった。七種くんは凪砂くんと出会って日も浅いのに彼の本質を見抜いて何が最適解なのかをすぐに見出していたようだ。

「台本はどんな感じなの?」
「……一言で表現するのは難しいけど、少し高圧的な態度のキャラクターを演じるんだ」
「え、凪砂くんとは真逆じゃない……?」

 凪砂くんがアイドルとして輝くためには必要な台本なのかもしれないが、まさか彼とは全く別の人格を演じるとは思ってもいなかった。

「……見た方が早いと思う」

 そう言って差し出されたデビュー映像。予想通りいつもの凪砂くんとは全くもって違う口調だ。が、彼のパフォーマンスや鋭い表情からは想像が容易いキャラクターだった。
 成程わかりやすい。
 ステージ上でいつもの姿からは想像のつかないパフォーマンスをする彼だからこそ、七種くんはそんな凪砂くんのアイドルとしての魅力を引き出そうと思っていたのかもしれない。七種くんは凪砂くんが歌っている姿からインスピレーションを受けたのか、その姿の凪砂くんはステージ上のイメージと似通っている部分もあり、七種くんの思惑に感嘆した。
 でも、インタビューの時もこれでは本当の彼をファンの子たちに隠すこととなってしまうのではないか。

「凪砂くんはどうなの?」
「……言葉を考えなくていいから、楽」

 そう言ってその動画を停止した。

「……自らの言葉を創造して口にするのは煩わしいから」

 あぁ、またこの目だ。
 あまりにも冷たく尖ったような目。彼にとって話すことは苦しいことに直結するらしい。
 確かに、今まで自分の意思を表出してこなかった彼は拙いながらも無理に言葉を紡いでいた気がする。なかなか抜けなかった敬語も手探りに話していたからだろう。
 演技をするというのも一種のパフォーマンスで、アイドルになるという点では共通しているのかもしれない。初めて示した彼の意志を曲げることはできないと思った。
 彼の成長を願うのであれば、彼自身で考え、決めることを放棄することは良くないのではないかと多少の不安が生まれていた。しかし、彼がそれを嫌がっていないこともあり、私は肯定せざるを得なかった。それが彼の成長の第一歩に繋がると考えたからだ。

top