Agapanthus
キスをしても落ちないティント
ドレッサーの前でメイクをしていると、その光景を後ろのベッドから静かに見ていた彼が不意に口を開いた。
「新しいティント?」
「これ? そうだよ」
「へえ、いい色じゃん」
「かわいいよねぇ」
先日購入したティントが『キスをしても落ちない!』なんて文言が掲載されていて思わず買ってしまった。これを彼に言っては期待していると思われそうなので秘密だ。
「ご飯食べても全然落ちないんだよ〜」
そう言いながらメイクを続けていると、鏡越しに見えていた彼が視界の中で動き、いつの間にか隣に来ていた。
「……」
「ん? どうしたの泉」
私の唇をじっと見つめる彼に困惑して彼の方を向くと、ふと彼が近づいた。と、思えばちゅっと一瞬だけ私の唇と彼のそれが触れた。
「……え」
「本当。ぜんっぜん落ちないねぇ?」
何が起こったのかわからず頭が真っ白になっていると、彼が私の前の鏡を興味深く覗き込んでいた。
「え、い、泉?」
聞こえないふりをしているのかそれとも聞こえていないのか、鏡に向かって感心している彼。おそらく後者だ。
「泉!」
「何? 耳元でうるさいんだけどぉ」
「今の何!」
「ちょっと落ちないこと確認しただけでしょぉ」
それはわかった。そうではなくて、どうして突然何も言わずにキスで確認したのか。
「で、でもティッシュでとか、指でとか。確認の仕方は他にもあるよね……?」
眉間に皺を寄せていた彼が私の言葉を聞いた途端「そんなこと?」と怪訝な表情をしていた。するともう一度彼の顔が近づき、今度は何度もキスが落とされた。息が少し苦しいぐらいの、それでも私がうまく呼吸できるように一呼吸置いたかと思えば再び降ってくる。
どうしてこんなにもキスをされているのか。彼の逆鱗に触れるようなことをしてしまったのかもしれない。しばらく続いたそのキスは蕩けるほど気持ちよくて私が悪いのか、何をしたのか、なんて考えすらもできなくなっていた。
ようやく満足した彼が親指で彼の綺麗な形の唇を拭った。その仕草でさえ色っぽい。うっとりとしていると、彼が口角を上げてその親指を見せる。
「ほら、こうしても落ちない」
「……え?」
「キスする時に落ちるのかが気になるでしょ」
その言葉に私の顔は沸騰しそうなほど真っ赤になっていただろう。その表情を見た彼はふっと笑っていた。
「まぁた変な顔してる」
「だって……」
「こんなことでドキドキしてたら、これ以上のことした時どうするわけ? ナマエの心臓持たないんじゃないのぉ?」
そう得意げに笑う彼が私の頬をつねる。『これ以上』という言葉に期待してしまい心臓は大きく音を立ててどうにかなりそうだった。
そんな彼の心臓も破裂しそうなほど鳴っていたことも、コスメに詳しい彼が広告に掲載されていた文言を知らないはずがなかったこともこの時の私はまだ知らない。