何年後かは特に考えていませんが、日和の引退IFなのでお気をつけください。
ぼくの彼女は徹底してライブ会場に来ようとしない。それはアイドルの立場であるぼくとしてはありがたいことではあるけど、少しだけ寂しい気持ちもある。これを伝えると彼女は「日和くんを応援してくれるひとたちに失礼だから」ときっぱり断る。
頑なな態度の彼女に、ぼくは「来てほしい」と強く言うことができない。ぼくが悲しそうな顔をすれば、彼女は折れてくれるかもしれないけれど、それでは彼女の意志を損ねてしまう。それに、彼女が言っていることは最もで。
彼女が会場にいるというだけで、ファンを不公平に扱うことは決してないと言い切れる。しかし、彼女の方を気にすることはないと断言はできない。どうしても彼女を探してしまうだろうし、彼女を見てわずかに表情が変わるところをファンのみんなに知られてしまう可能性だってある。
これは自惚れではなく、ぼくを細かく見てくれているファンへの尊敬の念も含まれる。アイドルのぼくを心から愛してくれることが嬉しいことではある分、そういったことがあるとバレてしまうリスクも避けられない。
「じゃあ、ぼくの輝いている姿をきみに見てもらえないの?」
「うーん。でも最近は『配信』でも見られるようになったみたいだから、見れるよ」
いつも困ったように「ごめんね」と残念そうに謝る彼女も、今回だけは嬉しそうな表情をしていた。『ライブ配信』というサービスを考えたひとを褒めてあげたい。
「嬉しいね!」
彼女に勢いよく抱きつくと唸り声を上げながらもぼくの背中に手を回してくれる。
「ステージ上で光り輝くぼくを見たら、きみは失神してしまうかもしれないね?」
ぎゅうっと抱きしめるとぼくの胸元に埋まった顔を懸命に動かして彼女のかわいらしい顔だけが姿を現した。
「……え。日和くんそんなに違うの?」
「ふふん。それは見てからのお楽しみだね?」
不思議そうに首を傾げる彼女に愛しさを覚えながらも彼女の柔らかい頬にぼくの頬を擦り寄せた。
◇
ライブが終わってバタバタとしたのち、やっとまとまった休日がとれた。
「アイドルの日和くんて、結構違うんだね」
ライブの感想を楽しそうに話す彼女を見ているとあたたかい気持ちが溢れる。
「でも意外だったなあ。日和くんがあんなにファンサービスするなんて」
彼女の抱くぼくのイメージはどんなひとなんだろうか。心外だ。
そんな彼女に意地悪をしたくなる。
「――だって、」
一歩近づいて。耳元に顔を寄せる。
彼女はぼくのしていることに不思議な様子だった。いつもより低く、優しい声色で呟く。
「君にしか見せない表情があるからね」
「ッッ!」
ピクリと背を伸ばした彼女の反応が愛らしくてふっと耳に空気を吹きかけた。
「ひ、日和くん〜〜!」
「そんな顔で見ても可愛いだけだね?」
ふふんと上機嫌になる。
悔しそうに睨んでいる表情も、ぼくにとっては愛しいだけ。ぼくと身長がそう変わらないのに顔を上げずにそんな目をしているから、上目遣いになっている。
ファンのみんなへの愛と彼女への愛は別物だ。ファンのみんなのことは心から愛しているし、ぼくがアイドルであるための心の支えでもある。でも、彼女への愛は何にも代え難く、形容し難い想いで溢れている。
困ったような表情も拗ねた表情も、見ているだけで胸がいっぱいになる。
ぼくは嬉しさのあまり、ちゅっちゅっと彼女の額や頬にキスを落とした。顔がりんごのように真っ赤に染まる彼女を見ると、胸の中は愛しさで溢れる。
「今日、頑張ってたから。ご褒美、だよ」
自分でやったことなのに顔を真っ赤にしなが
ら俯く彼女が愛しくて、胸がきゅっと締め付けられる。
「はぁ……。どうしてきみはそういうことするの?」
「え、ダメだった? ごめんね」
「違うね。きみが可愛すぎるのがいけないね」
「どういうこと?」と呆れつつも笑う彼女。もっと自覚してほしいくらい。
「ぼくを惑わすのは、この唇かな?」
ちゅっと唇を啄むようにキスを落とすと、彼女の中の糸がプツッと切れたのか、目を輝かせて「そうだよ」と言いたげに彼女がキスで返事をした。
それから何度もキスをしては微笑み合った。
そんな彼女との呑気で惚気な出来事を忘れるくらいに、状況は一変することになる。
幸せな時間も過ぎ、ぼくはアイドルを引退しなくてはいけなくなった。
『日和、もうそろそろやめたらどうだ?』
そんな言葉に、同意せざるを得なかった。
今まで好き勝手に夢を追っていたぼくは、いずれこの夢を諦めなくてはいけないと思っていた。
ひとときのモラトリアム。ぼくが目を向けていた夢は、大人にとっては馬鹿馬鹿しい夢物語だったのかもしれない。
大人になってもまだ子どものまま。
周りのひとたちにとって、アイドルとはお遊びごとだと思うのかもしれない。
それでもぼくの信じる道を精一杯進んできた。夢ノ咲学院から玲明学園へと転校して、『Eden』、『Eve』として活躍をして、ファンのみんなに愛されてきた。
ぼくの愛は満たされた。
もう十分という言葉を頭の中で何度も呼び起こした。
でも。
でも、彼女はどう思うだろうか。
勘の鋭い彼女のことだから、ぼくがやめたくはないということもわかってしまうだろう。
彼女には、弱いところを見せたくない。
「引退ライブ?」
「うん。ぼくも実家から色々言われちゃってね。そろそろアイドル業から足を洗えってしつこく言われて。困っちゃうね。それに――」
「日和くん。アイドル、やめちゃうの?」
ぼくの長い話にいつも耳を傾けてくれる彼女が、話を遮ることがない彼女が、初めてぼくの言葉を遮った。
彼女の顔を見ると、真剣な眼差しをこちらを見つめていた。
「……うん。もう決めたね」
ぼくもやめたくはない。もっと、凪砂くんと、ジュンくんと、茨と。そして――応援してくれるきみと。アイドル、巴日和をやめたくはない。
それでも、いつまでもアイドルを続けられるわけではないとわかっているから。
「そっか……。最後まで応援してるね」
――意外だった。あんなにもキラキラと輝く瞳でぼくのライブ配信を楽しんでいた彼女が反対しないだなんて。
自分で決めたことではあるものの、彼女に何も言われなかったことがショックだった。ぼくの夢を一緒に追いかけてくれて、応援してくれていた彼女に、「やめないでほしい」と言ってもらいたかったのかもしれない。
「……日和くんが決めたことだから。でも、私はラッキーだね。日和くんがキラキラ輝くライブを一番近くで見守れるなんて」
いやちがう。彼女はぼくの心のうちを知った上で、励ましてくれているんだ。
もっとぼくが求める愛されるアイドルを見たかったはずだ。それでも、ぼくがやめたくないと言ったら応援してくれただろう。
でも、そう言わなかったから、ぼくの決断を尊重してくれた。
「ありがとう」
「え? どうしたの急に」
ふふっと笑う彼女は、ぼくの暗い心の中に咲く色鮮やかな花々のようだった。
「あ。一つだけわがまま言ってもいい……?」
「なあに?」
あまりわがままを言わない彼女が眉を困らせていた。
「最後くらいは、日和くんのライブ、行きたいなぁ。なんて……わがままかな?」
先ほどまでの真っ黒な心は彼女によって明るく照らされていった。徐々に声が弱まる彼女と反対に、ぼくは笑顔になっていった。
「うんうん! 絶対に来てほしいね!」
「行ってもいいの?」
「もっちろん。楽しみだね! きみがあっと驚くような演出を取り入れようね!」
明らかに興奮するぼくの様子に、目を丸くしていた彼女は吹き出したようでお腹を抑えて笑っていた。
その姿が愛しくて、なぜか涙が出そうだった。
ぼくはいつも彼女に助けてもらってばかり。そんな彼女の後押しを無駄にしないようにしよう。そう意気込んだ。
◇
ドクン、と心臓が大きく音を立てた。
いつもの見慣れた風景のはずだった会場が、全く違って見えた。
大きな歓声と、悲鳴。みんなが僕の引退を嘆いてくれた。
こんなにも愛されているぼくは幸せだね。
もっと。
もっと、聞かせて。きみたちの美しい声を。
溢れ出しそうな想いを、歌に乗せていつものように笑顔を振る舞った。
そんなことを考えながら、必死に歌って踊っていると、あっという間に最後の曲がきた。
この景色を、もう見られないと思うとすこしだけ目頭が熱くなった。
すると、それに気づいたのか、それとも寂しいからなのか。凪砂くんが、ぼくの手をいつも以上にぎゅうっと強く握ってくれた。
ぼくがにこりと微笑むと、凪砂くんが真剣な表情をした。
「……日和くん、最後は君が」
耳元でそう呟くと、ジュンくんも茨も頷いていた。
ああ、ぼくはファンだけでなくメンバーにも恵まれた。涙が溢れ出そうになる。
『最後だからって、涙は見せないね』
『無理しなくてもいいんじゃ……?』
『ううん。最後に涙を流したら、ファンの子たちと離れ難くなるね。それに、アイドルのぼくはキラキラと輝くステージの上で、笑顔で終わらせたいね』
そう、彼女と話したことを思い出して、グッと奥歯を噛み締め、今日いちばんの笑顔をする。
一呼吸置いて、大きな声をマイクに向けた。
「みんな、ありがとう。また会おうね!」
彼女はこの瞬間も見ているだろうか。ぼくが最後まで泣かないでライブを終えた姿を。
彼女が見てくれていると思うだけで心が温かくなっていた。
◇
「最後のぼくの完璧な姿、見ていた?」
「もちろん。ずっと日和くんのこと見ていたよ。最後まで笑顔で走り抜けていて、かっこよかった」
その言葉に、ほっとする。自分では完璧に終えられた自信があったけど、もしかしたら少しでも綻んだ部分があったかもしれないと不安があったから。
それでも、完璧に幕を閉じたライブに満足した。メンバーに、ファンのみんなに。そして、彼女に見守られながら終えたぼくは幸せだ。
「日和くん」
胸を撫で下ろしていると、彼女が突然ぼくの名前を呼んだ。さっきの浮つく声色とはちがう。
「日和くんは、私のお日様だよ。いつまでも、いつでも私を照らしてくれる。だから、日和くんがアイドルをやめても、私の偶像だよ」
彼女の真剣で、そして重くも温かい言葉に、鼻の奥がツンと疼いた。お日さまだなんて、それは彼女の方なのに。
「――そうだね。きみのアイドルでいられるなら、ぼくは幸せものだね」
「私だけの応援じゃ、何万人ものファンには劣るけどね。でも、今まで応援してくれていたファンがすぐにいなくなるわけじゃないでしょう?」
「うん」
「会場、すごい熱気だった。あんなに一体感を作ったのは紛れもない日和くんだよ。終わる時も、ファンのみんなが静かに泣いていて、日和くんがまた会おうねって言った途端、またねってみんなが言ってて……」
うんうんと彼女の声に耳を傾けていると、徐々に小さく、掠れていく。顔を見ると眉を顰めて涙を堪えているようだった。
「どうして泣くの?」
「日和くん、泣かなかったね。日和くんは、最後まで笑顔でいようって、言ってたもんね」
「そうだね。きみに言ったことだったから」
だから、ぼくは頑張れたんだよ。
ぼくの代わりに涙をぽろぽろと流す彼女を見ると、胸の奥にじわりと切なさが広がっていく。
疼いた奥はもう我慢できないところまで来ていて、涙が一粒、こぼれ落ちた。
泣きじゃくる彼女を見ていると、愛されていることが改めてわかる。ぼくは本当に、幸せ者だね。
「日和くんは明日も明後日も、これからもずうっと、私のアイドルだからね」
鼻も瞳も赤らめながら目尻を下げる彼女に、愛しさが溢れ出そうになる。
この気持ちを抑えられずに彼女を強く引き寄せてぎゅっと抱きしめた。しゃくりあげる彼女の背中を優しく撫でながら、ぼくも密かに涙を流していた。
もうアイドル巴日和ではない、彼女の恋人巴日和が、彼女の前で涙を流す。そんな当たり前のことを、彼女には向けられた。
彼女の笑顔を最後に、アイドル巴日和の人生は今日で終わり、そしてまた新しく明日を迎える。
ありがとうみんな。
ありがとう。この世界に二人といない、大切でかけがえのないきみ。