Agapanthus

今夜は帰したくありません




「そろそろ終電のお時間では?」
「はい……」

 もう日付が変わろうとしている時間。名残惜しさを感じながらも、彼女の終電が差し迫っていた。
 歯切れの悪い彼女の返事に、眉を顰める。何かあったのだろうか。彼女に対して何かいけないことでもしたのだろうか。

「あの、今夜は帰りたくない、というか。離れたくなくて……」
「…………え?」

 自身でも驚くほど間抜けな声が漏れる。
 いつも素直になれない所が愛らしいとも思える彼女が、珍しく甘えたように私を見上げている。
 気まずいような表情でチラッと私の反応を確かめては私とパチリと目が合えば瞬時に逸らす。
 むしろ、私の方が冗談混じりに、それでいて真実を含めて「離れたくない」と伝えるつもりだったというのに。これだと本当に離れ難いではないか。

「フフフ。あなたも帰りたくないんですね。私もちょうど同じことを考えていたんです」

 私の笑い声を聞いた途端、俯いていた顔を上げた彼女はパッと明るく光を放った。わかりやすい反応に、愛しさが込み上げてくる。
 緩む頬を抑えられずに彼女を抱き上げると「わあっ」と狼狽える。焦る彼女の姿も、彼女を見上げるこの状況さえも、何もかもが私にとっての至福の時だ。

「渉さん、おろして」

 わたわたと手足を動かして、もがいている姿も、見ていて胸の奥が温かいもので満たされていく。

「帰りたくないと言ったのはこの可愛い子ですね? 私は幸せものです」

 嬉しさのあまり、彼女が舞うように、共に踊るように宙をグルグルと回っていると、彼女も徐々に楽しくなってきたのか笑いが込み上げていた。

「ふふ、なぁにこれ」

 ハリウッド映画のワンシーンのように笑い合う男女は、側から見れば馬鹿らしいと言われてしまうかもしれない。が、今の私たちにとってこの瞬間は幸福そのものだ。

「さて」
「渉さんどうし――」

 気づかれないように寝室まで移動していた。彼女をベッドに優しく下す。すると、きょとんと私を見上げていた。表情がコロコロと変化する彼女の様子は見ていて楽しい。

「『今夜は帰りたくない』、ですよね? その意味、わかっていますか?」

 私の言葉が耳に入った途端、ポンッと火が噴いたかのような音を立てながら顔を真っ赤に熱らせる。勿論、意味を理解していないわけではないだろうが、この反応を見るに、先ほどまでの陽気な雰囲気から一転して驚いているのだろう。
 私が彼女からおねだりをされてどれほど嬉しかったのか、彼女にはわかるのだろうか。

「その反応。期待しているんですか?」

 ただ唇を噛み締めてふるふると震える姿はまるで小動物のよう。私は決して虐めているわけではないが、彼女の反応を見てしまうと何故か揶揄ってしまいたくなる。

「おやおや? 子犬のように震えてどうかしましたか?」

 つい意地悪を言いながら目を細める。我ながら酷い揶揄い文句だ。

「私が何か悪いことをしましたか?」

 弱々しく首を振る。否定したいのだろうが、ほとんど意味を成していない。
 ベッドについている彼女の手に自身の手を重ねて指を絡める。彼女の指を堪能するようにスリスリと指を優しく撫でれば撫でるほど楽しくなっていく。

「……まあ、今からあなたに『悪いコト』をしますから、間違いではありませんけど」

 耳元でそう囁くと彼女が弾かれたように勢いよく顔を上げる。その反応に満足した私は自然と口角が上がった。
 耳まで真っ赤に染める姿は加虐心を擽られる。ゾワゾワと全身が震える感覚に陥り、この感覚を手放したくなくて彼女を力一杯掻き抱く。

「……今夜は優しくできないかもしれないです」

 ポツリと本音が漏れ出る。

「えっ、んぅ」

 彼女の上唇を甘く噛む。ふにゅっと音がしそうなほど柔い唇は、無意識なのか私へと反応を示す。
 私が彼女を手玉に取っていると思われがちだが、実際は私が彼女の手のひらの上にいるのだ。彼女の反応一つひとつが私の理性を狂わせる。
 合間に漏れる吐息が耳に入るたび胸が苦しくなっていく。私を映し出す瞳は潤んでいて既に焦点があっていないように見えた。

「もう限界ですか?」
「んっ、うぅん。まだ」

 私の挑発的な言葉にムキになってしまったのか、強情な返答は彼女らしい。変なスイッチが入り私の胸元を小さい手で必死に掴んでいる。
 ちゅっちゅっと強請るようなキスがあまりにも可愛い。眉尻を下げながら困ったような表情で私に身を預ける。私を掴む手も、私の硬い胸元に触れて柔く潰れる胸も漏れ出る吐息も。何もかもが私自身を昂らせていく。
 あぁ、愛しい。このまま私の元にいてほしい。
 黒く渦巻く胸の内を力任せにぶつけることは容易だが、それをできないことがもどかしい。彼女を困らせないように、そして私の願いを唱えるように彼女に縋りながら呟いた。

「今夜は絶対に私の側から離れないでくださいね」

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