「渉さん、ピアノ弾くんですか?」
練習室のピアノをポロンポロンと弾いていた彼が気になって声をかけた。
「今度の演劇で披露することになったんです。ピアニストという役もなかなか刺激的で楽しいですよ」
「渉さん何でもできるから、きっとピアノも素敵なんだろうなぁ」
ステージ上で堂々とピアノを弾く姿を想像する。豪快に弾くのか、それとも繊細に優しく弾くのか。弾くたびに靡く髪にうっとりとするかもしれない。
「弾いて見せましょうか?」
「え、いいんですか?」
いつものようにフフフっと笑えば、腰をずらして少しだけスペースを空けてくれる。
「さぁ、どうぞ。あなただけの特等席です」
手を差し伸べられる。そんなロマンチックな姿が様になるのが彼だ。おずおずと手を差し出せば、捕えられた手の甲に唇が落とされる。
「あっ」
「おいたがすぎましたかね?」
「い、いえ……」
どうしてこんなにも彼のひとつひとつの所作は艶めかしいんだろうか。彼の言動に酔って目眩がしそうだ。
肩が触れそうな距離。彼の厚い胸板が目に入っては反射的に視線を逸らす。
彼が目を瞑りながら音に耳を傾けているのを見ると、わっと思わず声が漏れる。こんなに間近で奏でている姿を見れるだなんて、本当に特等席だ。
「す、すごい! 渉さんって本当に何でもできますね?」
拍手をしながら尊敬の眼差しで彼を見上げると、パチリと目が合った。優しさが滲んだ彼の瞳に心臓が跳ねる。呼吸が浅くなる事実から目を逸らして声を振り絞る。
「ほ、他にも何か弾くんですか?」
そう言ってピアノの屋根に見えた楽譜を取ろうと立ち上がる。手に取ると彼にあっという間に取られてしまう。彼が目の前に持っていき、私にそれの表紙をみせた。
「そういえば、あなたも弾けましたよね?」
楽譜越しに見えるその瞳は少しだけ熱を孕んでいるように見えた。
「あ、いえ、今は全く。幼い頃に少し習っていただけです」
彼がパラパラとページを捲っていく。その楽譜は私も知っているような曲だった。
「練習のために簡単なものを借りていたんです。これなら弾けますか?」
「そうですね、多分」
私の返答で嬉しそうに頬を緩めた彼は「一緒に弾きましょうか」と耳元で呟く。低く色があるように聞こえる彼の声に胸の奥が甘く痺れる。
一緒に弾こうと誘われているだけだというのに、彼の声色が、表情が、妖しい雰囲気を醸し出す。その空気に飲まれそうでずっと心臓の音は大きく鳴りっぱなしだ。
彼にバレていませんように。
鍵盤に指を乗せ、呼吸を合わせて弾き始める。もう何年も弾いてないというのに、彼と弾けば不思議と指が動いた。
体で音を感じていると、彼も自然と体を動かしていた。久しぶりの感覚に思わず頬が緩んでいた。彼も同じ気持ちのようでいつの間にか笑い合っていた。
彼の音域と重なりそうになり、指が絡まないように少しだけ手前を弾く。すると、それに気づいた彼が悪戯に肩を近づけた。手首が触れそうな距離に、思わず彼を見上げると目を細めて微笑んでいた。
わざとなのか徐々に縮まる距離に、柔軟剤の微かな香りと彼の甘い香りが鼻をかすめた。肩が触れそうになるたびにそれを感じで呼吸が浅くなっていく。吸い込むたびに鼓動が速くなっていくから。
そんな彼からの無自覚な誘惑に集中力が切れそうになるが、このまま止めるわけにはいかない。お喋りな彼が口に出さず真剣に弾いてくれているんだから。妨げてはいけない。
鍵盤を弾くたびに彼の指も触れそうになる。触れるか触れないか数ミリの距離に肌が痺れる。彼に弄ばれているようで悔しい。
もう少し。もう少しで終わる。早くこの時間が終わってほしいという思いと、彼との時間を楽しみたいという思いがせめぎ合った。
最後の音を鳴らして、彼がペダルから足をそっと離す。宙に舞う手を見ると、無意識に止めていた息を吐いた。胸がいっぱいになって彼を見上げると三日月のように目尻を下げて笑っていた。
ふと小指同士が触れて、きゅっと小指が絡められる。そうしてあっという間に手を合わせるように指を絡め取られる。スッと細く伸びている指と皮膚の下にある太くしっかりした骨の感触に包まれる。私より一回り大きい手に彼との体格差を感じで胸がきゅっと苦しくなった。
まともに顔を見られないほどに恥ずかしいのに、何も言わずに目線を合わせる彼がずるい。「私を見てください」と言われていないのに、顔を覗き込まれる。
「……渉さん。わざとですよね」
「なんのことでしょう?」
とぼけるふりをした彼が恨めしくて目を細めても「そんな顔をされても私が喜ぶだけですよ」と軽くあしらわれる。
ニコニコと効果音が聞こえそうなほど破顔する彼が楽しそうで波立つ感情が収まっていく。
「また一緒に弾きましょうね」
「ふふっ、そうですね」
彼のペースに乗せられているようだけど、不思議とそれが心地よかった。