Agapanthus

チョコレートな私




 彼からするチョコレートの香りは蠱惑的な中にも清らかさが含まれている、不思議な香りだ。彼の好物であるチョコレートは彼を構成する一つとして彼に刻まれていると言っても過言ではない。彼の大人な色気とその馨しい香りは、私を夢中にさせる。いや、私だけではない、皆がひとたび彼の香りを嗅いでしまえば彼の魅力に落ちてしまうだろう。それほど、彼はどこか人を引き付ける魅力がある。
 初めて私がそれを感じたのは付き合う前だった。
 

   *
 

「凪砂くんから甘い香りがする」
「え?」

 私の発言を耳にして、不思議そうに自分の香りを確認していた。彼はそれに気づいていないらしい。鼻を通るその香りは、嗅いだことのあるような感覚だった。それは甘くて芳醇な、お菓子のような。

「甘い香り」

 ポツリと言葉にすることで思いを巡らせているのか、彼は記憶の中から思いつく限りの答えを探していた。ハッと声を出した彼は何か思い当たることがあったみたいだ。

「……もしかすると、チョコレートかな?」
「チョコレート!」

 もやもやとしていた思いが確信へと変わると、点と点が結びついてすっきりする。「この香りはチョコレートだったのかあ……」と納得していると、会う前にチョコレートを食べる機会があったと教えてくれた。

「そういえば、凪砂くんチョコレート好きだったね」
「うん」

 頬が緩んでいる様子を見ると、心の底からチョコレートが好きだということが分かる。好きな食べ物がチョコレートというのはそれだけで魅力的なポイントになるのは、彼だからだろうか。緩んだ表情を見ると、いいな、と嫉妬心が少しだけ湧き出る。彼をこんな風に柔らかくするのは私ではないことに対する単なる羨望だ。彼をこんなに幸せで満たしてあげたいという気持ちは浅ましいだろうか。
 固まっていることに不信感を抱かないように言葉を続けた。

「でも、どうして食べただけなのに強い香りがするんだろ」

 普通、食べただけではチョコレートの香りはここまでしないはずだ。彼の元より漂う爽やかで深みのある匂いと混ざって、なんだか胸はそわそわと騒ぐ。『危ない香り』という表現がぴったりなのかもしれない。彼に惹かれていくこの感覚が好きだった。

 そして別の日にもそれを感じた。

「凪砂くん、チョコレート食べた?」
「……ええっと。確か三日前に食べたかな」

 三日前。なら今の香りは違うだろう。その香りは彼自身が放つフェロモンのようなものなのかもしれない、と彼に惚れているこの心がそう思わせる。我ながら下らない発想だ。ずっとこの香りに浸っていたいと思い、目を瞑ってチョコレートの香りに酔いしれる。
 ふと、彼がポツリと呟いた。私が言った言葉の意味を汲み取って、答えを探していたようだった。

「私の一部になってるのかもしれないね」

 彼の一部。そう考えると、チョコレートになりたい。なんて憐れな考えが浮かんでくる。彼の一部になれるなら、なんて淡い期待は抱いても無駄なのに。

「……今度は持ってくるよ。チョコレート」

 彼にとって私の表情は、チョコレートを食べたいと思っているように読み取られたらしい。私のことを気遣う彼に「そうだね」と微笑んでも心の底では彼に言えないようなことを考えている自分が恥ずかしくなった。
 

   *


 そんな彼との甘酸っぱい思い出の一つには、このチョコレートの記憶が鮮明にあった。あれから、彼の近くにいると匂いを意識して、心臓は激しく音を立てて彼との会話に集中できないほどだったからだ。そして、大きく変わったことと言えば、チョコレートの香りが街で少しでもすると彼のことで頭がいっぱいになってしまうこと。彼と一緒にいない時間も、チョコレートを通して彼と一緒にいる感覚になることができた。誰にも言えない秘密だ。
 そんな気持ちを抱いていた私が今では彼と付き合っているのだから、人生何があるかわからない。付き合った今では彼の香りに酔うことも良いと思い始めていた。


 ある日、雑誌を読んでいると、『彼女へのプレゼントで、あなた色に』という記事が目に入った。彼がプレゼントしたアクセサリーを纏う彼女はいつも彼色に染まっている、という内容の記事だった。そういえば、凪砂くんも私に彼の瞳の色だったりメンバーカラーだったり、誕生石だったり。そんな彼を連想させるようなアクセサリーを、彼はよくプレゼントしてくれる。私はふと、チョコレートになりたいと考えたことを思い出した。私の贈ったチョコレートが彼の一部になるのなら、と甘い想いが頭に過る。彼の好きな食べ物でもあるチョコレートをプレゼントしようと思った。

 デパートのショーケースに並べられるチョコレートは、宝石のようにキラキラと輝いていた。その中でも、敷き詰められたチョコレートが目に留まった。一見ブラウンのチョコレートはシンプルだと思われるかもしれないが、上に乗るドライフルーツや金箔、ココナッツやココアパウダーなど、色とりどりの宝石が詰まった箱のチョコレート。チョコレートと宝石が好きな彼は気に入るに違いない。すぐにそのチョコレートを包んでもらって購入した。
 浮ついた気持ちで帰宅してからも、彼の嬉しそうな表情を浮かべながら、不純な動機を悟られぬように表情を緩めないようにしようと意気込んだ。
 
 彼の帰宅後、夕飯を済ませてからチョコレートの入った紙袋を渡した。

「ちょっと待っててね。渡したいものがあるの」

 キッチンに置いていた紙袋を手に取り、彼の隣に腰かけた。私の持つ紙袋に不思議そうな顔を浮かべながらも、彼へのプレゼントだと理解するや否や、受け取って袋の中を覗き込んだ。

「チョコレート。凪砂くんに買って来たよ」

 その言葉を聞いた途端、ガバっと顔を勢いよく上げて大きく見開いた。キラキラと目を輝かせる彼はまるで子供のようで可愛らしかった。

「私に?」
「うん。凪砂くんいつも頑張ってるから」
「……ありがとう。いま食べてもいいかな」
「もちろん」

 袋から丁寧に取り出して包装を剝がしていく。彼の反応が楽しみで、既にドキドキと胸は高鳴っていた。蓋に手をかけてそれを開くとチョコレートの輝きに、瞬きせずに見惚れていた。
 一粒のチョコレートを取り出して、口に運ぶと顔を上げて私を見つめた。

「美味しい?」
「……うん。ありがとう」
「ふふ、どういたしまして」

 淡白に思われるその一言だけでも、彼の表情を見るだけで心の底から喜んでいることが分かった。彼のことを想って買ったチョコレートは、彼のお気に召したようだ。それはとても。
 彼が嬉しそうに口に運んでいる様子を見ていると、無意識に彼の香りについて話していた。

「そういえば凪砂くんて、いつも甘い香りするよね。チョコレートみたいな香り。付き合う前も言ったかもしれないけど」
「たしか、私が『チョコレートが私の一部になってる』っと言ったよね」
「え、すごい。付き合う前のこと覚えてるんだ……」
「……うん。あの時、君に私の匂いを嗅がれて胸が締め付けられる感覚になったことを、今でも鮮明に覚えてるから」

 あの時の彼は何ら変わらず、いつも通りだと思っていた。希薄な彼の心情の変化を今更ながらにわかることができた。

「……ほら、今も」

 彼が私の手を取って胸元へと誘導する。彼の厚い胸板に触れてピクリと指先が反応した。しかしそんなことも忘れるように彼の大きな鼓動が伝わってくる。ハッとして彼の顔を見ると、視線を逸らして頬を染めていた。ああ、彼もこんな表情をするんだ。

「な、凪砂くん、私のこと本当に好きなんだね」
「違うと思っていた?」
「いや、凪砂くんはいつも余裕そうだから。私ばっかりドキドキしてるなって」

 そんなことないと言いたげに目を逸らし続ける彼に、いつもとは違う甘い衝撃を受ける。彼が、あからさまに照れている。

「今も、君から貰ったチョコレートを口に含むだけで、君のことで頭がいっぱいなんだ」

 頬を染めながらそう言い放つ彼は非日常感を思わせる。きゅっと締め付けられるこの感覚が癖になってしまうように、彼に溺れてしまいそうだ。チョコレートに視線を落とした彼が、それに続けて言葉を紡いだ。

「……そして、私の食べる君から貰ったチョコレートが、私の一部として溶け込むんだ」

 何だか、イケナイコトをしているようで、目を離したくなる。しかし、彼はそれを許してはくれない。「そらさないで」と言われて顎を指先で引かれると、指先から熱が伝わる。この熱は私のものか、彼のものか。恐らく両者だ。
 目を逸らさないでと言って再び視線を合わせられると、私の心臓は苦しくて呼吸がうまくできているのか心配だった。でもそれより、今は彼に集中したい。私の贈るチョコレートが彼の一部になるんだから。散々、過去の私が望んでいたことが目の前で叶えられようとしている。彼の様子をじっと見ているだけで私の心は蕩けてしまいそうだ。
 気を改めて、彼がもう一粒のチョコレートを取り出す。ココアパウダーを纏うトリュフだ。溶けやすいそれは、まるで今の私を表現しているようだった。ドキリとした。それは、私。ぱくりと口の中に入って、彼の一部になっている様を見届ける。気恥ずかしくなっていると、彼は指についたココアをペロりと舐め上げた。それは、私にとって最後だと言われたように心臓を打ち抜かれた。

「凪砂くん、」
「甘いね。君みたい」

 みるみるうちに頬は赤く染まっていることがわかる。
 彼がソファに手をついて、身体を伸ばす。瞼を伏せながら顔を近づく。彼との距離がなくなったところで、ちゅっという音と共に甘いチョコレートの香りが微かに鼻を抜けた。さきほどまで照れていた彼とは一変。私の瞳をしっかりと捉えた彼は熱を孕む瞳をしていた。頭が蕩けるような状態の私には、彼の瞳に私だけが映っているのがわかる。
 やはり私ばかり好きが加速しているのではないか。それでも、止めどなく回り続ける水車のように彼に心の中をかき乱されることが幸せだと思っている私は、重症なのかもしれない。彼への好きは今までも、これからも愛を増しながら拍車していくのだろう。そう考えると彼から目が離せない今の状況は彼の世界に引きずりこまれている。二人だけの幸せな世界。
 それに浸るように彼の首元に顔を埋めると、甘くて爽やかなチョコレートの香りが胸いっぱいに広がった。彼の、彼だけの特別な香り。

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