少しだけ冷たい空気が鼻をすり抜ける季節。ついこの間まで暑い夏が続いていたというのに、あたりはすっかり秋を迎え入れる準備ができていた。
彼の待つ家まであと数分。
エレベーターを降りて廊下を歩いていると、嬉しい気持ちが隠せずに軽いスキップのように浮き足立っていた。
もうすでに帰宅していると連絡があったため、私の帰りを待ってくれているのだろう。扉の前に立つと、ひとつ深呼吸をした。
ハッと手に握っている紙を思い出す。彼にはまだ見つかってはいけない。その予約票を鞄に隠した。
「ただいま——」
ガチャンと扉を閉めてから、胸がずっとそわそわしている。リビングの扉が開いて、彼が出てくる。
「……おかえり。温かいコーヒーを淹れたから、あったまろうか」
寒かったせいだろうか、彼の優しい笑顔がいつも以上に暖かく感じてほっと胸を撫で下ろした。
「うん、ありがとう」
大きな紙袋を彼が預かってくれる。
そのまま彼の背中を追ってリビングの扉を開けると、キッチンにからするコーヒーの深い薫りが鼻腔を掠めた。
「外は寒かったよね。温かいよ、ほら」
「わぁ、ほんとだ」
マグカップを持ってきた彼が私に差し出してくれる。若干熱いそれを手で包むとじわりと温まった。
向かいに座った彼をチラリと見るだけで口角が上がりそうだ。きっとパァッと花開くように喜ぶだろう。
「ねえ、今日は何してきたと思う?」
不意に問いかける。彼にとっては何のことかわからないだろう。
それでも質問を投げかけるのは彼も何気ない会話を楽しんでくれるからだ。明らかに答えの難しい問題でも、彼は真剣に考えてくれる。こういうところが好きだ。
「うぅん……。今日は街に行っていたんだよね? 仕事ではなかったから、何か用事があって行ったんだと思う」
眉間に皺を刻みながら考え込んでいる。すると、視線が私の持っていた紙袋に移る。
「……紙袋を持っていたね。それに、帰ってきた君から仄かに甘い香りがした。カフェに行った帰りに、新しい洋服を買ってきたんだと思う」
「わぁ、凪砂くん香りまで気にしてたの? すごい、名探偵みたいだね!」
私の驚く素振りに口角を上げて満足気に瞼を閉じていた。
「服は買ってきたよ。でも、甘い香りはカフェじゃなくて、実は──」
真剣な眼差しで私の紡ぐ言葉を待つ。
「凪砂くんの誕生日ケーキ、予約してきました!」
鞄からジャーンっと言いながら予約票を出すと、それに視線は釘付けだ。
「……本当?」
「本当だよ。しかも凪砂くんが大好きなチョコレート!」
その言葉に疑惑の表情から明るい表情へと変わった。驚きで瞬いたあと、嬉しそうに目を細める。彼の瞳は煌めいていた。
「どうりで甘い香りがすると思ったよ」
「ふふ、ケーキ屋さんの香りだったってことだね」
「……私の好きなチョコレート。嬉しいよ。今からとても楽しみ」
ニコッと音が聞こえるくらいの微笑みを浮かべた彼が距離を縮める。ゆっくりと私の顔に手を伸ばす。
「私の好物を覚えてくれる君が愛しいよ」
「あ、ありがとう」
真っ直ぐな瞳でそう言われると、擽ったい気持ちになる。頬に触れる彼の手はとても暖かくて心地いい。
「当日には君がすくった一口目を私にくれる?」
そう言って唇に触れた。
「え……?」
突然放たれた言葉に私の思考は停止する。
彼の瞳に囚われて動けない。目を逸らしたいのにそれを許してはくれない。
「君が私の口に運んでくれたら、最高のプレゼントだから」
ふふっと柔らかい表情の彼にきゅっと胸が疼く。
「そ、それより、当日私にしてほしいことある?」
視線を逸らして誤魔化すように話題を逸らす。すると、彼がふるふると首を振った。
「君が隣にいてくれるだけで、何もいらないよ。それだけで私の心は満たされるから」
彼らしい、優しくて多くを望まない答えだ。でも、それだと意味がない。
「うぅん……。それじゃだめ。特別な日なんだよ。例えば、何かひとつだけ我儘を言うとしたら何かある?」
「じゃあその日、眠りにつくまで私のことを『凪砂』って呼んで」
「……え?」
「みんなには『凪砂くん』や、『凪砂さん』って呼ばれることが多いから、君に呼び捨てをされたらどんな気持ちなんだろうってずっと思っていたんだ」
確かに、気の置けない仲である日和くんも、彼のことを『凪砂くん』と呼ぶ。彼を呼び捨てにしている人は見たことがない。
「もちろんいいけど、そんなことでいいの?」
「君が私の名前を大事に、優しく呼んでくれることが好きだよ。だから、そんなことがいいんだ」
そう言って私の手を取る。ひんやりとした私の手が彼の温もりで包まれる。
「……君に名前を呼ばれると胸が苦しくなる。これは愛しいっていう気持ちなんだろうね」
目を細めて胸に手を当てる彼に、先ほどまで冷たく感じていた指先が温まるのを感じた。
誕生日当日。昨夜は私が眠ってから家に帰ってきたらしく、顔を合わせないまま彼の誕生日を迎えていた。
誕生日だからといって二人でゆっくり一日を過ごす——といったことはなく、アイドルの彼は誕生日だからこそ忙しい。午前中はいつも通りの仕事が入っているし、事務所で開かれるパーティーに誕生日の生配信。と、一日中働き詰めだ。
そんな彼を直前まで休ませてあげたいと思い、彼を起こさずメッセージだけ残して仕事に向かった。
『凪砂くん、お誕生日おめでとう。帰ってきたらゆっくりお祝いしようね』
休憩中、通知を確認すると、彼から『チョコレートケーキ楽しみだね』という一言と、目を輝かせたキャラクターのスタンプが届いていた。
午前中の疲れが吹き飛ぶくらいには可愛くて私もスタンプで返した。
「ただいま」
「凪砂くんおかえり。お疲れ様」
「……うん、ありがとう」
歯切れの悪い返事に首を傾げる。疲れているのだろうか。さすがにこの時間までの仕事は大変だったのかもしれない。
冷蔵庫からケーキの箱を出して、お皿に取り分ける。彼はその様子を何も言わずに眺めていた。
「凪砂くんどうしたの?」
「……『凪砂』」
ケーキに目を落として彼がポツリと言葉を溢した。
「え? ……あ!」
彼の視線の先にあるケーキを見て私も思い出す。
『私のことを呼び捨てにしてほしい』
その言葉が頭をよぎる。
「今日はずっと呼び捨てにするんだっけ。ハードル高い……」
「ふふ。言ってごらん」
「ぅ……。な、ぎ……」
この我儘を聞いてほしいと話していた時はどうってことのない我儘だと思っていたのに、いざ呼ぶとなれば緊張する。
「聞こえないね」
そう言って顔が近づく。至近距離で私の様子を見ているようでより一層気恥ずかしい。
「な、なぎさ…………くん」
「だめだよ、『くん』をつけては」
むぅっとむくれた全く怖くない顔で私を叱る。なかなか言えない私に痺れを切らして何かを言おうとした直後、彼が微笑んだ。名案を思いついたかのように。
「今から呼び捨てにしなかったらキスをしようか」
「……え」
何がなんでも彼は私に名前を呼び捨てにしてほしいらしい。そんなペナルティを課すなんて珍しい。
「なぎ、さ」
「今のは『くん』がついてそうだったね」
「ち、ちがうよ! ちゃんと——」
私の声をかき消すように唇が触れる。ほんの少しだけ触れるだけのキス。それなのに、いつも以上に心臓が騒がしい、
「ほら、もう一度」
彼の楽しそうな表情が恨めしい。
「な、なぎさ……!」
勇気を出してはっきりとそう呼ぶと、彼はしばらくの間固まっていた。
「え、あの……凪砂くん?」
「顔を上げて?」
唇を固く結んで顔を見上げると、蕩けるほどに甘い瞳がこちらを覗いていた。
「ッ!」
その顔はズルい。私も、もう一度呼んであげたいと思うから。
「なぎさ……好き」
大切に、丁寧に、その名を紡ぐ。大事な宝物のように、繊細に。
「…………ありがとう」
泣きそうに、それでいて嬉しそうに柔らかく微笑む。彼の喜ぶ顔が見られるなら、何度でも呼びたい。
「凪砂。……凪砂」
「……ふふ、うん。私はここにいるよ」
彼の大きくてゴツゴツとした手が私の頬に触れる。すると、優しく指の背で輪郭を撫でる。
彼の今にも泣きそうな潤う瞳が私の心をぎゅっと鷲掴んだ。あぁ、彼は今とても幸せを感じて
いるんだ。
「凪砂、愛してる」
思わず溢れた本音。彼はこの言葉をある人に重ねているのかもしれない。それでも、今は私が、私だけが彼のことを『凪砂』と呼んでいる。
その対象が誰であれ、今は私だけが彼にとっての特別だ。
目を見開いた彼が喉を上下に動かして生唾を飲み込んだ。
「今のじゃまだ足りない……そんなことを言われたら、もっと我儘になってしまうよ」
そう言って額を擦り合わせる。懇願するように、胸苦しそうに。もっと、彼の綺麗で優しい名前を呼びたい。
「なっていいんだよ」
彼の愛情表現に答える。すりすりと優しく額を寄せる。間近にある彼の顔には、不安と喜びが入り混じっているようだった。
「凪砂、お誕生日おめでとう」
愛おしさが溢れて、彼の手に指を絡める。それに応えるようにきゅっと強く返ってくる。
「凪砂、だいすき。好きだよ」
うわ言のようにそう呟く。彼に好きだと伝えたい。
その瞬間、引き寄せられてあっという間に彼の腕の中だった。彼の心音が私にも響いて、ひとつになる。心地いい彼の抱擁に自然と瞼を閉じる。
それを見逃さなかった彼が唇を奪った。
「な、凪砂くん、今は呼び捨てしたからキスはしないんじゃ——」
あっ。と、自分でも呼び捨てにしていないことに気づいて慌てて口を覆う。それを待っていたと言わんばかりに彼の顔が再び近づいて首元に口付けを落とされた。
「ん、凪砂く……」
「うん。君の『凪砂くん』だよ。でも今はだめだよ」
そう言ってちゅっちゅっと軽いリップ音を立てながら私の耳元にキスを何度も落とす。私の反応を見てわざとそうしているんだ。
「ん、凪砂くん、面白がってるでしょう?」
先ほどまでの弱々しい表情を浮かべていた彼とは別人のようで。私の何かが彼のスイッチを押してしまったようだった。
「残念。凪砂って呼ばないと」
私の問いに答えずに呼び方を正される。納得のいかないまま首筋に何度もキスを落とされる。擽ったいのに、耳元に響くリップ音に背筋が徐々に震えていく。
「ん、ふふ。なぎ、さ。くすぐったいよ」
彼の吐息がかかって思わず笑いが溢れる。
「ねえ、次はどこにしてほしい?」
「え、」
彼からの突拍子のない質問に迷った、その一瞬の隙に——唇を甘く噛まれた。深く、刻むような、私の中に入ってくるような濃厚な口付け。このまま食べられてしまうのではないかと錯覚するほどに酸素がなくなっていく。
それでも、私の腰を抱く手は優しくて力強い。嫌だと抵抗するわけもないが、いつでも逃げようと思えば逃げられる。でも、そんなことは不必要だった。蕩けきった頭では、彼の瞳からは逃げたいと考もしなかったから。
「んぅ、はぁ、なぎさ」
このままだと快楽に溺れそうで、必死に息を整える。彼のペースに追いつくように。
顔を上げると、パチリと目が合った。彼もまた、眉間に皺を深く刻んで、快楽に苦しみながらも受け入れようとしていた。
「……君が私の名を呼ぶたびに、私の胸の奥が熱く、痛く疼くんだ。苦しいのに、不思議と不快感はない。むしろ心地よくもあるよ。だからもっと呼んで、私を感じて」
「う、ん」
彼の胸元を強く掴んで彼の口付けに答える。私を暴いていく彼の唇によって、体は徐々に力が入らなくなっていく。考えることもままならない。このまま彼に身を任せて、彼に溺れていたい。そう思って彼の背に手を回した。
無意識に呼んでいるいつもの呼び方はなかなか抜けず、この後は「お仕置き」という名の甘くて苦しいくらいの幸せな時間が続いた。
チョコレートケーキはというと、どれだけの時間、キスに夢中になっていたのだろうか。溶けていたというだけで容易に想像がついた。その事実に気づいたとき、互いに顔を見合わせて笑った。
冷蔵庫に戻すと、猶予が生まれたと言わんばかりに再びキスの嵐が降り注いだ。