カレーパン回(?)
邂逅編とも言う
一話のみの中にあるものとはまったく別の設定





脳みそがバグるってこういうことなんだよ。

「おお…おおお…」

安物の油紙がガサガサ音をたてる。包まれているのは、カリカリに揚がったドーナツだ。できたてだから、手のひらを火傷してしまいそうなほど熱い。でも、そんなのは気にならなかった。良質な小麦粉や卵が使用されたのが嫌でもわかるフワフワの生地に、かぐわしい香り。瞬きした。この独特な香りを感じたのは、いつぶりになるんだろうか。
興奮のままに、勢いよくかぶりついた。あふれるスパイシーな香りにトロトロのルゥ。かなり本格的だ──三回くらい瞬きした。昔も昔、そのまた昔。あるいは未来。幾度となく味わった記憶がおぼろげなまま蘇って、脳裏に弾けた。
気付けば、俺は四つん這いになってその場に崩れ落ちていた。
生まれてからこの方、この懐かしすぎるジャンクな味わいをすっかり忘れていた。どうして忘れてしまっていたんだろうか。カレーパン、いやカリーパンというらしい。どうでもいい。十九世紀末にこんなものが食べられるなんて、思っちゃいなかった。感動した。シェフはどこだ。手をとってお礼を言いたくてたまらない。
俺は崩れ落ちたまま、万感の思いをこめて、噛みしめる様に呟いた。

「なつかし………」
「懐かしい?」
「いや…これ…魂レベルで故郷の味っていうか…」
「食べたことがあるのか」
「お前と出会うよりもっとずっと前にね」

察してくれたらしい。たった今まで他人のふりをしていた男は、僅かに目を瞠ると、自分のそれにかぶりついた。なんでかぶりついてんのに、俺と違って口の周りにパン粉がついてないんだろう。不思議だ。魔法かなんか使ってる?

水晶宮。クリスタルパレス。
記念すべき世界で最初の万国博覧会の会場となったこの施設は、万博が終わった後も、こういう英国王室が関わる催し事の会場として利用されていた。今回は『英国におけるインド文化とその繁栄展』として。会場での催し物のひとつに、中流階級以上も入れるカリー品評会があるとのことで、俺は誘いを受けて足を運んだというわけだ。
急な誘いだったけど、こいつが味わえるなら来た甲斐があったってもんだよね。いやマジで。
だって十九世紀のイギリスでカリー、いやここは敢えてカレーパンだと言おう。こいつを味わえるなんて誰が想像した?

「俺が審査員だったら絶対にファントム社のカリーパンに投票するね」
「ハロルド・ウエスト社のカリーを食べていないのに?」
「魂の故郷の味だからさぁ」

これは比喩ではなくマジの意味だ。ため息をつく。
あっという間に食べてしまった。おかわりできないかな。いい大人がはしたないからしないけど。
油紙でできた袋の底に残ったパン粉を見つめてノスタルジーに浸る。ここが平成の世なら、上を向いて袋を煽って、最後のひとかけらまで味わい尽くすんだけどな。ここクリスタルパレスだし、我慢我慢。俺だってたまには場の空気くらい読める。

ところで、ハロルド・ウエスト社もファントム社も気前よくおかわりを配っていたので、ありがたくいただいた。隣から放たれるドン引きの視線をブスブス受けながら二つ食べた。いや仕方ない。これはマジで。魂が欲する味なんだって。
二つ目を平らげようというところで、どこからともなく馬に乗ったファンキーなおばあさんが現れた。騒然とするメインステージ。ここには声が届かないけど、メインステージの方はけっこう騒がしい。
ドン引きの視線が止んだ。

「女王陛下?」
「え?」

友人は相変わらず遠くがよく見える目で、メインステージを凝視していた。そんなに驚いてるところ、あんまり見たことないぞ。

「どうしたよ」
「…、あちらにいるのは、女王陛下だ」
「はい?」

たっぷり数秒沈黙してからの爆弾発言に思わず三度見した。状況に気付いた民衆がなんだなんだと背伸びしているので、馬が首を振っている様子しか見えてこない。

「てかなんでお前分かるの?」
「何度か謁見している」
「うわ」

そういえばこいつ、ガチガチのモノホンの貴族だった。『昔』なんか比じゃないレベルで。

「そうでなくとも、このような場で黒いドレスの着用を許されるのはあの方くらいのものだ。アルバート公が亡くなられてから随分経つが、今も服喪されていると伺っている」
「へえ」

時は十九世紀初頭のイギリス。
過去から現在、二百年くらい先の未来を含めても、きっとこの時がこの国の最盛期といっても過言ではない、そんな時代。産業革命による経済、芸術、文化の発展は目覚ましく、世界から『太陽の沈まぬ国』と讃えられるほどだ。それを築いたのがファンキーなおばあさんもとい、ヴィクトリア女王、というわけだ。
国際魔法使い連盟機密保持法が施行されてからというものの魔法界とマグル界、ふたつの世界の交流は途絶えた。当然、産業革命の恩恵も受けていない。いくら俺の魔法史の成績がヤバくても、マグル界のイギリス史に燦然と輝く女帝の名前くらい、覚えているつもりだよ。

チラッとだけ見えたのは柔らかそうな物腰の──女王陛下にこの表現はあまりに不敬──年配の女性だ。確かに黒いドレスを着ている。
女王は何事かを言って、ハロルド・ウエスト社のインド人シェフではなくファントム社の執事にトロフィーを授与していた。一介の執事が出場して決勝の場に残ってるってだけでも面白いのに、本場の人間を差し置いて優勝するの、面白いよな。凄まじく有能なんだろうか。それとも料理が趣味?もしかして出来レースだったりする?

「ケニー」

二度目の人生でも変わらない名前を呼ばれて、俺は品評会の終わった会場を横切った。颯爽と前を歩く背中は、ざわつく会場の中でもひときわ騒々しいグループに向かっていく。小さな男の子を抱きしめて号泣しているインド人のそばにいるのは、さっきまでメインステージにいたインド人のシェフと執事だ。
思わず顔をしかめた。話の流れ、どこに向かってる?

「シエル」

俺の友人は、慣れた様子で男の子の名前を呼んだ。男の子はひどく驚いた様子で、俺がいまだに慣れない、二度目の人生の『こいつ』のファーストネームを口にする。

「レイモンド叔父様…!?」
「おじさま??」
「ああ、紹介しよう」

レイモンドと呼ばれたかつての俺の親友──レグルス・アディントンの顔をした男は、同じくらい超絶美形のかわいらしい男の子を指して言った。

「彼はシエル・ファントムハイヴ。カリー品評会で優勝したファントム社の社長で、ファントムファイヴ伯爵。僕の甥だ」
「はい!?」

俺は爆音で怒鳴った。なんなら、女王陛下をチラ見した時よりも驚いていた。
社長!?甥!?伯爵!?!?

「こんなちっこいのが!?」
「弁えろ」
「ゴフッ」
「すまないシエル。僕の学友の失礼を詫びよう」
「い、いえ」

俺、床に転がってるんだけど。ねえ。
いやでも伯爵か…こんなちっこいのが伯爵…。訂正、こんなちっこいのに伯爵。
この子の父親であり、レイ…レイモンド…慣れねえ…。の、兄貴は数年前に亡くなったと聞いていた。兄貴の奥さんや双子の兄弟、召し抱えていた人間もみんな惨殺され、生き残ったのがこの子だけとも。えぐいね。俺の古いかさぶたが疼いちゃうね。
一度瞬きして、体をあちこち叩いて綺麗にしておく。

「どうも伯爵。俺はケニー・アディントン。孤児院の出でね、口が悪くて失礼」
「孤児院の出?」
「今は医者としてロンドンで勤務している」
「ああ…先生というわけですね」

見た?聞いた?今の。「孤児院の出」って言った時の声のトーンと、「先生」って言った時の違い。この時代の階級制度と自分より下の階級へのヘイト、ハンパないからね。俺がこの場所に足を踏み入れられるのも、聖マンゴの研修を経て無事に癒者の肩書を取得できたからに過ぎない。

俺とレ…レグ…慣れねえ、レイモンドは二回目の人生を百年ほど遡って生を受けた。
不思議なことに、俺もレイモンドもふたたび──レイモンドはみたび──魔法使いとして生を受けた。俺達の半生は、お互いに二度目のそれとところどころ違っていた。
俺はというと、まず、物心ついた時から既に孤児院にいた。そこで『レグルス・アディントン』という男の子に出会わなかった。
時代も違うしてっきり知り合いは誰もいないのかと思いきや、こいつはいたんだけどさ。名前が違うのに分かるわけないだろ。

レイモンドはマグル界の伯爵の爵位を持つ貴族の末子として生を受けたらしい。十九世紀のイリギスで、だ。孤児院育ちでも、そのエグさはなんとなく理解できる。
魔法界に王族はない。魔法界の貴族は、ただ純粋に古く、純潔の血を絶やさずにいる家のことを指していた。マグルの貴族とは、言葉が一緒なだけで、意味合いがまるで違う。マグルの爵位を持つ家は大なり小なり、広大な土地を治める領主だ。いわゆる地主みたいなもの。ファントムハイヴ伯爵ってことは、ファントムハイヴって名前の土地があるってことだ。ブラック家とはわけが違うって、分かるだろ?
そりゃ、何百年級の、古い高貴な家柄の出身であり、マグルと懇意にしていれば変わらず広大な土地を治めているかもしれないけど。限りなくゼロに違い割合で、ほぼいないよね。

「(まあ、三男だし、継承権はハナから無かったんだろうけど)」

だから先代が亡くなった今でも魔法界で悠々自適にやってんだろうな。
俺は普段の三割増しで柔らかく話し込んでいるレイモンドの背中を見つめた。なるほど、あのカリーパンは伯爵お抱えの執事作だったってワケね。

「ん?」

振り返って、瞬きする。
その執事からめっちゃ見られていることに気がついた。右に傾いても左にズレても目が合ったままだ。怖っ。嫌なんだけど上から赤い目にじーっと見つめられるの!

「あの…何か…?」
「………」

無言やめて!?
執事は一歩、三歩と距離を詰めてきた。背中が曲がりそうになる程至近距離で見つめられる。瞬きしてほしい。頼むから。マジで何!?

「セバスチャン」

空気がぴんと張り詰めた。冬のロンドンの空気はもともと刺すような冷たさだったけれど、これは体が重たくなって動けなくなるタイプの冷たさだ。言葉を放った人間がそのまま空気を重たくしていると気付くのに少し時間がかかった。レイモンドが、個人に対してこんな分かりやすい棘のある態度を示すことなんて、滅多になかったから。

「彼に、何か用があるか?」
「──いいえ」

くるりと背を向けて否定した執事の顔も、こちらを見もせず言い放ったレイモンドの顔も俺からは窺い知れない。
知れないので、ご主人様以外には嘘をつける悪魔が微笑みの下で舌なめずりしたことも分からないまま、俺はクリスタルパレスから差し込む血のような赤い夕日を浴びていたのである。





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