09
かつてピーター・ペティグリューという男がいた。
父さんの親友だったその男は、俺たち一家が隠れ住んでいた家の場所を密告し、両親の死の片棒を担いだ。
真相を知ったもうひとりの親友を罠にかけ、濡れ衣を着せ監獄に収監させた。自らは死んだふりをしておよそ12年、ネズミのふりをして息を潜め続けた。
うん。死んだふりをしたという一点において俺は何も言う資格はない。
閑話休題。
強い男ではなかった。
誰かを組み伏せる実力も、腕もなかった。誰かを言い負かすほど口は回らないし、機転もきかない。いつも父さんとシリウスの影に隠れて、ふたりが右を向けば右を向いたし、左を向けば左を向いていた。
自らの保身を求めてあがいた彼の結末を、今もどう言えばいいのか分からない。
それだけのことをした男を俺は憎みきれなかった。俺や弟の誕生を祝って、遊んでくれて、他の親友と同じように幼い俺たちを慈しんでくれたのもまたピーターなんだよなあと知ってるから、どうしても憎むに憎みきれなかったというか。
うだうだとぼやく俺を、ある男がぴしゃりと叱りつけた。
「そんな風に甘やかすからいけないんだ」
言い訳しようとすれば男は尚も畳みかけた。
「その甘さが呼び水だ。だから君の両親は殺されて、僕の両親も殺された。数え切れない犠牲と痛みと、死があって、あの男は彼らを踏みつけにして生き延びた。裁かれるべきであり、許されるべきではないんだ。いいか、『それ』は免罪符にならない」
分かってるんだけどさあ。
なとどぼやいた俺を心底ぶん殴ってやりたい。
ぼやいた俺を殴らなかったあいつに今は心底感心している。
どれだけ気弱で不誠実で愚かで野心家じゃなかったとしても、「そうするつもりはなかった」と言い訳したとしても、でも、誰かを不条理に傷つけていい理由にはならないんだよなあ。
壁が半壊した日本家屋に大股で近付いて土足で踏み入る。怒りが爆発したせいで想像の数倍威力が上がってんだけど、どうか壁の裏に誰もいないといいなって思った。ちょう今更だけどな。
ブーツで板の間を荒々しく踏みならしながら奥へと進む。無造作に手を振るえば、横滑りの戸はスパパパンといい音をたてて開いた。なんて見晴らしがいいんだろうね。
「鶴丸。どこだ」
キッチンぽいとことか、広間っぽいとことか。間仕切りのある部屋をいくつも通りすぎた。歩ける範囲はどこを探してもいない。呼んでるんだから返事しろよおい。
返事できない状況だったらどうしよう。
我ながら嫌すぎる想像でますます怒りのボルテージが上がった。おいふざけんなよまたクソ審神者に跨がられてんじゃねえだろうな。
何回目かのスパンで、人影を発見した。
「………」
薄い着物一枚纏って、部屋の隅で少年と青年が震えていた。ほんとに神様ってやつはお見目が麗しい奴らばっかりで最悪です。悪態をつきかけた。
一目で分かっちゃうんだよなあああ性的な意味で食い物にされちゃってんのがさあ!胸糞レベルが倍速で上がっていくわ!クソが!マーリンの猿股!!
待てよ。こいつら侍らせてんだとしたら奴は近いな?
一歩踏み出した瞬間バチッとやられて俺はひっくり返った。ひどい静電気が駆け巡って、衝撃でぶっ飛ばされたような感じ。おいこれ火傷じゃ済まねえぞ。実際俺の大事なブーツの先が焦げついている。
これがあの男の記憶にあった、審神者野郎の結界ってやつか。
主である自分以外の干渉は許さない、従う側の神々には手出しのできない不可侵領域。
「…上等だ!!」
目には目を、歯には歯を、面倒な結界には爆発を──と言いたいところだが、そうもいかない。
相手は術者だ。単純だけど、神様を阻む程度のからくりは仕込んであるに違いない。
ぐるりと目の前を見据える。なにもない。ように見える。目の前に広がる部屋は今までのどの部屋より奥行きがあって、広々と続いていて、終わりが見えない。だからこそ、違和感を覚える。物理的にもこの空間の広がり方はおかしい。
両手を目の前にかざして、目を閉じた。集中する。
「“コンファンド” “アパレシウム”」
錯乱の呪文。出現呪文。続けて唱えてみせれば目の前の空間が、さざなみが立つように揺れる。
かさかさと揺れて、今の今まで視認できなかった小さな札のようなものが壁の四隅に貼りついているのが見えた。朧気になりつつある懐かしい記憶の中で、きびきびとした威厳のある恩師の教えがリフレインした。
──ほつれた糸を一本引き抜くと、全てがばらばらに解けてしまうように
「…ありがと、マクゴナガル先生」
あなたの教えは今も健在です。
目を開いた。たった今まで見えなかった戸がそこにあった。屋敷を仕切っていたものとは設えが違う。
なるほどこいつが敵の本陣ってやつだな。
「“ディフィンド”」
くるりと人差し指を回して空間をなぞる。四隅に貼りついていた札はスパンと真ん中で切り裂かれ、ひらひらと落ちていくのを確認した。
四つ指を揃えた右手を構える。左手を、右腕に乗せる。思いきり深呼吸した。
「“レダクト・マキシマ!!”」
激しい音をたてて戸が吹き飛ぶ。背後で悲鳴が上がったが気にかけてはいられない。ぶっ飛んだ戸は四方八方に飛び散って、もうもうと埃が舞い上がった。掃除しろ。
鼻と口を袖で覆い、少し咳き込みながら目を凝らす。けぶる視界の先は薄暗くて、灯りのひとつも目につかない。土足で一歩そのまま踏み込んで、誰かが悲鳴をあげた。男だ。衣服を乱した男が侵入者を見つけて、後ずさっている。そいつからそのまま視線を下ろして、俺は見つけた。乱れた布団の上で、仰向けのまま動かない鶴丸がいたのだ。
「…つる…」
あちこち腫れて、痣の浮いた白い肌。後頭部に血が滲んでいる。両手首と踵が切り裂かれ、それぞれの傷口は手当てもされずにそのままだ。
乾いた──白い、精液が。口元に、股の間に、血の上に、こびりついている。目も当てられない。
あんなに綺麗だった眼差しに、もう光はなかった。
「──は、」
これほどの怒りを覚えたのは、本当に久しぶりだ。
知らない言葉をわめいている男の服を掴み引き倒し、振りかぶって、顔面を思いきり殴り抜いた。
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