A−2
「こんなもん、ツバつけときゃ治るよ」
ナイトレイブンカレッジの養護教諭であるケニー・アディントンはそう言った。
マジフト部の獣人が鼻血を流しながら運び込まれようと、オクタヴィネル寮の人魚が前歯を折った生徒をかつぎ込もうと、魔法薬を誤飲したポムフィオーレ寮の生徒が搬送されようと、彼の言葉は決まっていたので不快感を示す者はいなかった。彼の常套句に今更医者が不潔な、だなんて文句をつけはしないけれど、「今回ばかりはツバじゃ無理だろ」と思いもした。医務室のベッドに寝かされているのはたった今、オーバーブロットしたばかりのリドル・ローズハートだ。
ブロットを溜め込みすぎれば命に関わるのは魔法士にとって常識だし、生き死にを左右する事態がツバを塗りたくることで解決できるわけもない。医者の彼が一度だってツバを塗りたくる処置を施すところは見たことがないけれど、トレイ・クローバーは顔をしかめて先生、と言った。
「リドルは…よくなりますか?」
「だいじょーぶ」
のんべんだらりと男は言って、ケイトが腰かけている背もたれのない椅子の脚を蹴った。立ち上がれということだ。
「晩飯食いっぱぐれるぞ」
それ以上は何も言わないで、出口を指差したのでふたりは途方に暮れて顔を見合わせた。幼なじみが心の底から心配だった。できれば目覚めるまでついていてやりたかった。トレイとケイトだけではなく、万人がそう思うだろう。
じっとしている、図体ばかり大きな男ふたりを赤い目が睨みつける。
「お前ら、あれが見えるか?」
ケニーが壁の張り紙を指差した。ケイトはぶすくれた様子でそれを読み上げる。
「…『医者の言うことに逆らうべからず』」
ケニー・アディントンが高齢のために退職した養護教諭のかわりにナイトレイブンカレッジにやって来て以来、掲げたルールはたったひとつだ。この医務室に足を踏み入れた者は、誰だろうが彼の指示に従わなければならない。そこが医務室じゃなかろうが、彼が医者を名乗るのであれば指示に従わなければならない。彼が赴任してきて数年が経つが、そのルールに逆らおうとする今はひとりとしていない。
『サバナクロー寮寮内抗争事件』『モストロ・ラウンジ乱闘事件』『スカラビア寮寮長誘拐未遂事件』これら3つの事件を経験している2年生よりも上の生徒はもちろん、教師も、学園長も、骨の髄まで染み込んでいる教訓だ。
「そうだ」
男はにべもなく続ける。
「分かったらケツ上げて大食堂に行け。扉の外にいる1年坊も引っ張っていけよ。面会終了だ」
今度は座板を蹴り上げられてケイトが痛そうな声を上げた。
「せんせー、リドル君が起きたら教えてよ!」
「はいはい」
ヒラヒラと手であしらう。しっかりと扉が閉まったことを確認してから踵を返す。
清潔なふきんをレンジでチンしている間に戸棚の中から米びつを取り出した。普段はふきんを消毒するのに使っているボウルを取り出して、その中でじゃばじゃばと豪快に洗う。洗ったら片手鍋の中にひっくり返して目分量で水を注いだ。こういうのはテキトーでいいのだ。彼の場合、テキトーがいつもうまい具合にいっていた。
上の戸棚を開ける。
顆粒タイプの鶏ガラスープ、粉末タイプのかつお出汁、こんぶ茶。それらをまた目分量で片手鍋の中に入れる。ざばざばかき混ぜて、味見して、スプーンをシンクの中に放り入れる。
この世界の進歩と流通の進歩の度合いをケニーは気に入っていた。
魂の故郷(クサいことを言った自信はある)の味を簡単に手に入れられるし、ストックして置いておけるほどの保存技術も確立されている。なんて素晴らしいのだろう。ミルク粥はまずすぎて食べられなかったし、オートミールもそんなに好きじゃなかった。魂の故郷が違うので。
「先生」
溶き卵を流し入れていたところでリドルの声がした。寝苦しいと思ってネクタイを外したのは自分だが、制服を着崩しているリドルは珍しいどころか違和感があるなと思った。ストイックまでの規則遵守の姿勢が今回の事態を引き起こしたのだとしたら、決して笑い話にはできないけれど。
「腹減ってるか?」
「いえ…食欲はありません」
「そっか」
オーバーブロットは精神に強い影響を及ぼすと言うが、詳しいことは分かっていない。患者が少ないのも原因だが、そのほとんどは精神を病むか死んでいる。実のところ、リドルは病院送りになってもおかしくなかった。彼がオーバーブロットした時に熟練の魔法士や、魔法士の卵が傍にいたのが不幸中の幸いだったのだろう。
「んじゃあ、ちょっと待ってろよ」
リドルは白衣の背中を視線で追って、備えつけのキッチンから食べ物の匂いが漂っていることに気が付いた。食事を作ってくれたのだろうか。だとしたら申し訳ないことをしたのかもしれない。リドルは、親切に答えないことは不徳だと思った。
「あの」
「ん」
驚いて言葉が引っ込んだ。湯気のたつマグカップが視界に入り込んでいる。
「胃にもの入れないと荒れちまうからさあ、飲めるとこまででいいから飲んどいて」
「………」
「それ飲んだらこっちね。解熱剤」
小さな白い錠剤を手で握りしめて、少しだけ湯気を嗅いだ。あたためられた牛乳の香りがした。ベッドに腰かけて一口啜ってみると、牛乳だけじゃない何かの味がした。ほんのり甘い。ケーキのような重たさはなくて、紅茶に落とすシュガーのような強さもない。
じわっとなにかがこみ上げて、リドルの大きな瞳からほろりと涙が一筋伝い落ちる。
「、」
静かな感情の決壊だった。言葉にはならないし、顔が真っ赤になるような激情もないけれど、リドルはほとほとと雫を落とし続ける。笑いたいのか泣きたいのか分からない。怒っているわけでもない。なぜだかひたすらに悲しくて、頭がボーッとして、考えたいのになにも考えられない。この時のリドルは発熱していたから頭が回らないのは当然なのだが、リドルは理由が分からないから止められなくて、ついにしゃくり上げた。
「えうぅ」
彼が起きたときにカーテンを開け放ってしまったから、ケニーには全部丸見えなのだけど口を挟む野暮はしない。つけたばかりの煙草の煙を換気扇に向かって長く吐き出した。彼の気持ちが痛いほど分かったからだ。
過去、3度ほど死にかけたことが彼にもあった。
無意識だろうが死の縁を歩いて生還できたのなら、そりゃあ安堵する。気持ちが落ち着けば、感情が追いついてくる。死を味わった恐怖と、生を実感する安堵が同時に襲ってくる。頭がぐちゃぐちゃになるほどの激流を、ティーンなら制御できなくて当然だ。
「生きててよかったね」
言って聞かせるのは野暮なので、換気扇の音に溶けるようにちいちゃな声で呟いておいた。
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