プロローグ
病院の香りとして名高いグルタラール製剤の匂いは、ここには一欠片も存在しない。五本の指では足りなくなった辺りから指折り数えるのをやめてしまったが、もう何年もこの病院にお世話になっている割に、消毒液特有の粘膜に痛い匂いに出会った事がない。
むしろ、夏の代名詞とも言える爽やかなサイダーの甘い香りが、この病院全体を支配しているような気がした。サイダーの香りはきっと、ベッド横でカルテに筆を走らせるなかむ先生のものだと思う。
「もしかして気になる?独逸語だから、零魔は読めないかもね」
「なに、書いてるのかなって」
「普通のカルテだよ。零魔の病状とか、投薬後の経過とか、治療方針とか」
なかむ先生は、ヴィンテージの万年筆を持っていない方の手の親指から順に折りながら、カルテの内容を伝えてくれた。万年筆から溢れる真新しいインクの匂いと、なかむ先生を包む甘いだけの炭酸の香りが混ざり合って不思議な気分になる。私は決してこの香りが嫌いではなかったが、段々と毒に侵されているような感覚がした。
なかむ先生は丸文字気味な上に、独逸語のスペルをかなり崩して書く癖があるときりやん先生が言っていたが、盗み見たカルテの文はどこで区切って良いのか分からなかった。否きっとそれに問題があるのだが、なかむ先生のふわふわとした雰囲気に似合わない文字だと思った。
「さてと、診察はこれくらいにしとこうかな。経過も悪くないし…何か聞いときたいことある?」
カルテを閉じたなかむ先生は、私の頭を撫でながらふんわりと花笑みをたたえた。なかむ先生が女性であったならば、彼を聖女と喩える人物がいるかもしれない。なかむ先生の言いつけを守っていることが一番正しいと、教え込むような笑い方だった。
「お外に、行きたいです」
「今日は暗いからまた明日ね。明日は晴れらしいから、ちょっと長めに遊ばせてあげる」
「中庭じゃなくて」の声は、なかむ先生の人差し指が当てられた口からは紡ぐことができなかった。「めっ」と子供を叱るように私を優しく咎めたなかむ先生には、私の稚拙な主張など全て筒抜けなのかもしれない。
病気のためにも、もう寝た方がいいと肩を掴まれベッドに押し付けられた。
「…覚えといて。魚は海の中じゃないと、息ができないんだよ」
それとおんなじ。電気の消された病室で、なかむ先生が呟いた言葉の意味は分からなかった。
この病院は、どこかおかしい。