妄想癖


珍しく、きりやん先生に起こされる前に目が覚めた。

 普段はきりやん先生に病室の扉をノックされ、それを目覚まし代わりに重たい瞼をなんとか持ち上げるのだが、今日は何だか目が冴えていた。

 燻んだ空の色で染め上げられた患者衣の上に、柔らかなたんぽぽ色のカーディガンを羽織った。数日前からきりやん先生にカーディガンに袖を通すよう言い付けられていた。植物園の温室の様に完璧な温度管理がされている中庭の様子だけでは四季の把握は難しいが、院内の空調機から漏れる風がひんやりとした涼しいものから肌に優しい温かさに変わったため、きっと今は秋口なのだと思う。

 「こんな小難しい本読むんじゃありません!」と没収されたスマイルお勧めの分厚い哲学書の代わりに、きりやん先生が置いていった小説を手に取る。ぼんやりと文字の羅列を眺めていると、焦燥に塗れた声と共に病室の扉が開かれた。

「ちょ、何で起きてんの?うまく寝れなかった?それとも怖い夢見て起きた?なんかあったら俺呼んでいいって、ずっと言ってるじゃん」

 まるで昏睡状態だった人間が目を覚ました時のように大騒ぎするきりやん先生に、首を振って違うと訴え掛けても「体調悪いのに何で一人で耐えようとするの」と、ぎゅうぎゅう抱き締められた。なかむ先生とは違う、蜂蜜たっぷりのれもねゑどの香りが鼻腔を満たす。

 きりやん先生は文字通り私の顔色をまじまじと確認したり、腕時計の秒針を睨みながら脈を測ったり、冷たい聴診器を患者衣の下に潜り込ませたりした後、ようやく満足したのか安堵たっぷりの溜息をついた。

「俺が起こしてあげるからゆっくり寝てていいのに。カーディガンだってさぁ、今度からは勝手に着ないで」

 ずれた眼鏡の位置を調整したきりやん先生は、数種類の薬がパッキングされた分包紙の口を切りながらそう言った。彼は、私が一人であれこれやってしまうことを極端に嫌う。一人でできるのに、もう誰かの庇護下にいなければならない程子供でも無いのに。

「はい、口開けて」

 「一人で飲めるのに」「ダメ、俺が飲ますから」の掛け合いは、最初の一ヶ月でやめてしまった。きりやん先生の機嫌によってはこの窮屈な病室からさえ出してもらえないため、おとなしく薄く口を開く。手渡された水で、口内に捩じ込まれた白と水色が半々のカプセルを流し込む。次はラムネに似た錠剤、その次は、と、朝に服用するらしい薬を全て飲み込んだ。


「うん、エライ偉い。朝ごはん食べ切ったら外出ていいからね」

 パンとミルクが乗ったトレーをサイドテーブルに置いたきりやん先生は、先程薬を飲んだ時に濡れてしまったらしい私の口の端を親指で拭った。まるで幼い子供を慈しむかのような視線に耐え切れず、交わった視線を切ってしまう。「逸らさなくてもいいじゃん」と不服そうな声を漏らしていたが、精一杯の抵抗だった。

「ねぇきりやん遅い、何してんの」
「あーぁ、迎えが来ちゃった。じゃぁ零魔、また後で」

 多少なりともお怒りのなかむ先生に白衣を引かれたきりやん先生は、ゆるりと手を振って病室から出て行った。それを見計らったように、朝食のトレーを持ったぶるーくが入れ替わりで入ってくる。ぽすんと遠慮無くベッドに腰掛けたぶるーくは、「おはよぉ」とふんわり微笑んだ。

「零魔に会いたくなって来ちゃった!零魔も僕に会いたかったでしょ?だって僕ら…えへへ、やっぱ言うのは恥ずかしいかも」

 最後の言葉を濁したぶるーくは、初恋を楽しむ女の子のように薄く色付いた頬を手で覆った。患者衣の上に着ている赤いパーカーに隠された左手首からは、点滴のチューブが伸びている。チューブを辿ると、速度調節をするクレンメ、点滴筒を経て、輸液バッグに辿り着く。輸液バッグは、血液とはまた別の生々しい赤い液体で満たされていた。まるで、ぶるーくから命を吸い取っているように見えてしまう。

「零魔?どうしたの?」
「ううん、何でもない…ぶるーくのその点滴、何の薬?」

 こてん、と首を傾げた彼は、迷う暇なく「知らない」と言い切った。なかむ先生達から輸液バッグの中身を知らされていないというよりも、自身に打ち込まれる薬に興味がない、というニュアンスだった。

「それよりさぁ、今日はどこで遊ぶ?今日は天気がいいから中庭もあったかそうだし、娯楽室でピアノ見つけたから零魔の好きな曲弾いてあげる!でもでも、このまま病室でのんびりでもいいなぁ。ふふ、零魔のこと独り占めできるもんね」

 トレーを空にしたぶるーくは、にこにこと指折り数えて今日の予定を語り始めた。

 彼の妄想癖は、日に日に悪化している。



「ぶるーく、あのね」

 私とぶるーくは、お付き合いなんてしてないよ。

 そう口に出そうとしたところで、思い留まった。以前ぶるーくの妄想を否定したところ、彼はぼろぼろと大粒の涙を溢し始め、「零魔と僕は付き合ってるの!」と手が付けられない程暴れ回ったのを思い出したからだ。眠気を含んだ目で不思議そうにこちらを見つめるぶるーくに、何でもないよと返す。

「えー…僕に隠し事しないでって、前約束したよね。僕には言えないようなことやっちゃったの?何か後ろめたいことがあるの?ううん、零魔がそんなことするはずないもんね、だって零魔は僕のことが大好きで、僕も零魔が大好きだもん。それで零魔、なんて言いたかったの?」

 ぶるーくは突然私の肩を掴んだかと思えば、自分で「大好き」と言って照れ始め、ゆるゆると口元を緩ませた後に、スッと表情を消した。正確に言えば、口角こそ上がっているが目元に一切の感情が含まれていない。魚の一匹すら生存できない深海を覗き込んでいる様な、夜の帳の色をした瞳がこちらを見据えていた。

「零魔?ね、僕に教えて」
「あ…えっと」

 掴まれた肩の骨が軋む音がする。おかしい、可笑しい。確かに元からふわふわしていて、突如としてトンデモナイことを口走ることはあった。しかしこの病院で過ごす日数が増えるたびに、ぶるーくの妄想癖が悪化の一歩を辿っている。にわかに信じがたいが、仮にぶるーくの症状が渦中の「ワイテル病」によるものだとしたら、彼の病気は全く改善していない。それどころか、彼の左手に刺さった点滴の針から溢れる妙な色の薬は、ぶるーくの病気の進行を助長しているようにも思えた。

 この世には様々な病気が存在するが、マトモな治療を受けなければ行き着く先は等しく「死」だろう。私たちとて、例外ではないと不吉な思考が頭をよぎり、ぞわりと肌が粟立つ。

「ぶるーく、痛いから、離して」
「やだ、零魔が言ってくれるまで絶対離さない。大丈夫、ぜーったい怒らないから言ってみて?ね?彼氏にカクシゴトはしちゃダメでしょ?僕は零魔に何も隠して無いもん、だから零魔も僕に全部言って」

 みし。人体から鳴ってはいけない音がする。私の肩が壊れるのは時間の問題だった。


中途半端なことを言うのは悪手、しかし馬鹿正直に言ってしまうのも論外。私の悩みの種であって、なおかつぶるーくに言うのを渋るような話題を出さなければならない。「ねぇ」といよいよ彼が地を這う様な声を出し始めるのと同時に、口を開いた。

「ぶるーく、この病院から出た方がいいと思うの」

 私の言葉を受けて手の力をすっと抜いたぶるーくは、意味を咀嚼しきれていないのか、暫くぽかんと私を眺めていた。ぱちぱちと態とらしく瞬きを繰り返した後、納得したように一笑を付す。ぶるーくの中で、点と点が繋がった合図だった。

「そっか、零魔は早くお外でデートしたいんだね!僕も零魔と色んなとこ行きたいなぁ…でも、お外は零魔のこと傷付ける人が沢山いるんだよ?」

「だからずっとここにいようね」と、ぶるーくは私を抱き締めた。力任せに締め付ける様な無骨なものではなく、生まれたての雛を包み込むような優しい抱擁だった。

「僕ね、このままずっと病気が治らなかったらいいのにって思うんだよね。外に出れないのは残念だけど、零魔が退屈しないように僕がいっぱいお話ししてあげる。僕は零魔のことが一番好きだけど、きんときとかなかむとか、みんなのことも大切。だから誰も悲しまないように、ここにいるのが絶対幸せだよ」

 「お悩み解決終わり!」と手を合わせたぶるーくは、まだ朝食を食べ終わっていない私の手を引いて中庭へと向かった。後できりやん先生に何て言い訳しよう、服薬とカーディガンの着用に限らず食事まで介抱されてしまうのだけはどうしても避けたい。「俺、食べ切ったら外に出ていいって言ったよね?」と眉間に皺を寄せる彼の顔が容易に想像できた。

 結局、トレーの回収をしていたらしいきりやん先生にぶるーく共々怒られ、案の定先生手ずからパンを食べさせられるという拷問に等しい罰を受ける羽目になった。その後は診察もなく、ぶるーくの妄言の相手をしていると一日が経った。一日中妄想漬けにされたため、最後の方はぶるーくの妄想なのか本当にあった出来事なのか判断する力も鈍り切っていた気がする。

「おやすみ零魔、またいっぱい遊ぼうね」

 消灯時間より二時間も早い段階で床につかされ、横に寝転んだぶるーくにぽんぽんと背中を叩かれる。いつも以上に温かな布団は嫌ではなかったが、早めにこの病院からの脱出を図った方が良いのかもしれないと、そう思った。








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