再び
「折角だし、ちょっと気分転換して行かね?」
それっきり押し黙ってしまった私を見兼ねたらしいシャークんが、そんな提案をしてくれた。身体中をぞわぞわと這い回っていた不安の毒虫が多少なりとも取り払われた気がして、彼に差し出された手を握る。反対側の手はさらりとスマイルに絡め取られた。浅瀬に打ち上げられた魚になってしまった様な息苦しさも、少しの温かさがあるだけで一気に深海へと戻ることができる。
「どこ行くの?」
「臨床実験室…は味気無いか。地下にあるのは手術室とカルテの保管庫だけど、零魔の好きな方で」
「え、っと…じゃぁ」
手術室にしようよ。
手術室は怖いかな。そんな私の声を打ち消すように、淡々と言葉を紡いだのはきんときだった。
「きんとき…きんときはどうして、そんなに手術室に行こうとするの?」
「うーん…零魔の感情を共有したいって、前にも言わなかったっけ?そう、特にね、痛くて苦しくて怖かった思い出とか」
私の頬に手を伸ばしたきんときは、昼間のスマイルと同じように私の瞼に親指を充てがう。瞼に水蜜桃色のシャドウを乗せるように、ではなく、薄い皮膚の下で蠢く眼球の形を確認しているようだった。ゆったりとした曲線を描く留紺の睫毛を人工的な白熱電球の光に透かせながら、私の目の筋肉の微細な痙攣や毛細血管の一本一本まで、余す所なく。きんときに触れられている場所だけ、すっかり体の生命維持を停止してしまったような感覚が息苦しかった。
「きんときさぁ、ずるくなぁい?僕も零魔のこと独り占めしたいのにぃ」
私の呼吸を繋いだのは、きんときから私を庇うように背後から覆い被さるぶるーくの間伸びした声だった。この息苦しさは、きんときから目を逸らす事ができなかった私が呼吸を忘れていたせいだと気が付くのにそう時間はかからなかった。
「…行こっか、手術室」
私の瞼を嬲っていた方の手で自身の右目を覆ったきんときが、手術室に向かって足を進めた。
手術室は、霊安室とはまた違った寒々しさを持っていた。線香の香りも、靴裏に纏わり付く埃も、慰霊のための花も、余計な影は何一つ存在しない。洗練されたフォルムの無影灯と、真っ当に生きていれば出会う事のない手術用らしい椅子が妙な存在感を放っている。部屋の四隅が視認できない程に薄暗く、おまけに壁も床も天井も燻んだ曇天のセメントの色をしていて、どこか監獄を彷彿とさせた。
「いい趣味してるな、本当に」
椅子に近付いたスマイルが肘掛けから摘み上げたのは、革製のベルトだった。スマイルがカンテラで椅子を照らし上げると、大量の導線が伸びる器具や、使用済みのアルコール消毒綿、目盛とスイッチだけのシンプルな機械が椅子を取り囲んでいた。ここで何かしらの手術が行われ、そのままの状態で放置されている。
「なかむたち、片付けしてないんだ」
「ぶるーくが手術受けたの?」
「んーん、僕は受けてないよ?」
ぶるーくは私の顔をまじまじと見た後、ふいに私を子供のように抱き上げた。いきなり地面から足が離れて、喉奥から母音混じりの空気の塊が漏れる。
「ね、ね、ちょっと座ってみて?僕も零魔がここ座ってるとこ見たい!」
「ま、待ってぶるーく、勝手に座るのは」
「えぇ、今更だから大丈夫だよ。ちょっと座るだけだもん」
くるりと器用に一回転して見せた彼からは、蟻を踏み躙る子供の様な無邪気さが垣間見える。
ぶるーくは静止に構わず、スライドガラスに壊れかけの観察物を乗せるような慎重さをもって、私を椅子へと下ろした。地椅子は下室の空気を吸い込み些かしっとりとしており、薄い患者衣一枚を挟んだ肌に吸い付いて気分が良いとはとても言えなかった。
「…満足した?」
落ち着かない。手術室に忍び込んだ挙句、不可抗力とはいえ手術用の椅子に座っているという罪悪感、焦燥。しかしそれらとは全く別の、体がこの不気味な手術室を無意識に拒んでいるような、そんな形容し難いもやに抱き締められているような感覚だった。
幾分か不服そうな表情で腕を組んだぶるーくに問いかけるも、彼はどこか納得いかないといった声を漏らす。
「これ、着けてもいい?」
「ぶるーく、良い加減に…!」
「えぇ、だってなかむ達だけずるい」
「おいやめとけって」
見兼ねたらしいシャークんが、拘束具を片手に駄々をこねるぶるーくを宥めてくれる。スマイルに手を借り椅子から降りると、完璧な微笑みで傍観していたきんときが口を開いた。
「帰ろっか」