電話


鈍器で後頭部を容赦なく殴られた時のような、足が縺れて跳び箱から思い切り落ちてしまったような、惨憺たる声が今朝の朝食と共に逆流した。少しばかり原形が残ったいつものパンと、ミルクのせいで白濁した胃液には目も当てられない。そんな事を考えているとまた腹の底から吐き気が込み上げてきて、既に吐瀉物塗れの屑籠を両腕で抱え込んだ。粘ついた液体が口の端から零れ落ちる。

 コールを鳴らして先生を呼ばなきゃ、私一人じゃどうしようもない。

 酸欠か、それとも発熱か。霞が纏わり付く頭を必死に回転させ、震えが止まらない足に力を入れては崩れ落ちてを繰り返す。体の異常をこれでもかと訴えかける脂汗のせいで、べっとりと背中に張り付いた患者衣が冷えて幾度も身震いした。

「きん、とき」

 反射的に口から漏れ出したのは隣室の瑠璃の名だった。

 両手を広げて主人を待つ真っ白なベッドに、残された最後の気力を捻出して仰向けに倒れ込む。寝具以上の白さを誇る病室の壁と天井に、まるで蛍が飛び交っている様な光がちらついては消えてを繰り返した。幻想的な悪夢の中で揺蕩う、非力な生物になった気分だった。

 四肢に直接極板を埋め込まれ、人間が耐え得る最大量の電圧が体の中で暴れ回っている様な感覚。全身の筋組織や神経を遠慮無く焼き、意識を手放そうにも激痛でまた現実に引き戻される。
 正に生き地獄という名を冠するに値する一介の体調不良の中で、私はあまりにも場違いな事を考えていた。

どうして私はきんときの名前を呼んだのだろう。
きんときが、前みたいにコールを鳴らしてくれると思った。
私は『前』を覚えていない。
それでも体は覚えていた。
痛みの理解も、オシオキも。


雨の香りがした。底冷えする様な雨の香りだった。
 涙雨の始まりを示唆するペトリコールに揺さぶり起こされ、光の享受を拒む瞼に力を入れる。ゆっくりと眼を開き瞳を冷えた空気に晒すと、ぼんやりと霞んだ視界に鮮やかな紫陽花が色を差した。

「ここ、どこだろう」

 いつの間にか体を預けていたらしいソファから立ち上がり、花浅葱と群青のカーペットから繊細なシャンデリアが輝く天井までぐるりと見渡すも、全くもって見覚えがなかった。明確なのは此処が病院でないこと、何処かの劇場かホテルか迎賓館のエントランスだということ、私を病室で襲った体調不良の欠片がまだ体を渦巻いていることだけだった。

 先生たちも、ぶるーくたちも、皆どこへ消えてしまったのだろう。その前に、一体此処がどこで自分がなぜ此処で寝ていたのかが皆目見当もつかない。汗と涙と、多少の体調不良の証で汚れた患者衣で荘厳なエントランスを裸足で歩き回るのは誰かに後ろ指を刺されているような気分になったが、意を決しぺたりと小さな一歩を踏み出した。

「どなたか」

 いらっしゃいませんか。

 絞り出した問い掛けが終わる前に、フロントに佇んでいる古めかしい電話機がジリリと音を立てた。人を急かすことに長けた、錆びついたベルの音だった。
 従業員でも無いのに受話器を取る訳にはいかない。電話に応対しない、至極当たり前で正当な理由を心の中で唱えるも、ベルが一つ鳴る度にべったりとした汗が一粒浮かぶ。従業員が出て来る様子もなく、静寂と雨の香りに包まれただだっ広いエントランスを、耳障りな呼び出し音が掻き乱した。

 私が、取らなければならない。そう思うより早く、本能的な使命感に駆られた私は受話器に手を掛けていた。

「ぁ、えっと、もしもし」

 ひんやりとした受話器をそっと耳に押し当てると、受話器の奥底からぽそぽそと音が聞こえる。磨りガラス越しに人を見るのと同様に、何か、灰色の綿を通した様な、不気味で不明瞭な音だった。

「すみません、あの」
「ぇっ、ぃで」
「あの、もう一度ゆっくり、」

 零魔、帰っておいで。

 受話器を当てていない方の、鼓膜が揺れた。耳触りの良い、聞き覚えのある声だった。








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