始まりにBet、愛憎にhurt
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ふぅ、と白い息を吐く。冬至の近づく真冬の盛り。薄い雪が溶け残っているラベンダーグレーの道の脇にひっそりと、雪のベールに抵抗するように佇む骨董屋・レーヴは、夜の闇を払拭するようにカンテラを灯していた。
モノクロの衣服を冬の風で棚引かせながら、少女は冬夜の鋭い洌に負けない玲瓏な靴跡を鳴らす。自然と人口物が衝突し合う音。観客のいない独奏は蕭索たる想いが湧き上がるほど甘い音波を放っている。
「あら、ヘルツちゃん。お久しぶり」
「……ああ、うん。久しぶり、です」
色のない少女──比喩ではなく、本当に色というものがない彼女は、ぶっきらぼうながらも骨董屋の店主に挨拶を返す。黒塗りのやや大きいレザートランクを両手に持ち、ぼんやりとした双眸で骨董品を品定めしている。分かりきったような視線は、酷く透徹している。
店主は懐かしげにその視線を見つける。最初はその眼差しに対して怯懦の念を抱いたのが最早昔のことに思える。まだ彼女と出会って一年にも満たないと言うのにだ。
「何か欲しいものがあるの?」
「……え、いや、別に。頼み事があって……店主、今日ここに泊まらせてくれない?」
彼女は話し慣れていないのか歯切れが悪い。しかしながらも要件は全部伝えられていた。すました顔だが目には戸惑いを色濃く刻んでいる。
人生の経験が刻まれた温和な笑顔が彼女の要求にイエスと答えていた。
「でも、どうして急に?」
「明日国民が軍に入隊する日で私も入隊希望者なの。……いつもと同じ宿は安心できない。こういう時期はどこの国でも他国のスパイに狙われがちだから」
遠回しに店主なら安心できると捉えられる言葉を吐露する少女。老婆は孫を見るような柔らかな視線を向ける。そんな暖かさとは無縁だったため、彼女はバツが悪そうに顔を晒し、逃げるように奥へと足を運ぶ。胸が締め付けられ、言いようもない苦衷が巣食う。
風呂に入り、歯を磨き、寝る準備は整った。しかし柄にもなく緊張しているためか眠ることができない。元来睡眠を必要としないが身体のコンディションを高めるには最も効果的な行為だ。こんな無意味なことを必要ないと分かった上で行為を行う非効率的な自分に嫌悪感が駆け巡る。
「…………っ」
ギリッ、と無意識に歯軋りをする。今宵の静寂は不治の病を連想させた。
────病い、病気、病的。
気を許せばナニカに飲み込まれ、叫ぶことすら不可能になるような、狂気的な閑静。生暖かい感触が細胞単位まで侵される感覚は、今日も、いつまでも、慣れない。ムカデが、這い上が、るよう、な感覚、は────。
「────それは、気のせいだよ」
ゆらり、と雪景色の髪が揺れる。事実現実味ある声は幻想を払拭した。幻想を包み込むリアルは救いであった。酩酊が抜けた──狂気がない──正常に足が地についた。その安堵感は息となり、また弱音を吐く原因にもなってしまった。
「やっぱり、来ない方が良かった」
────目を背け続けていれば、今頃。
熟れた林檎色の整った唇を、まるで果実を食むように噛んだ。今頃、なんだって言うんだ、という呟きは声にはならない。えら呼吸の魚が打ち上げられたようにパクパクと口を開くだけ。自分の矮小さに心が重くなる。重石が体内の空間という空間に無理やり敷き詰められる心地。
「…………寝よ」
降り頻る雪を一瞥してから布団に潜る。目蓋の裏に焼き付いた赤を消し去るように眠る。泥に沈む心地は、少しばかり救いを感じられた。