早朝。
キジバトが鳴くまだ大半の人間が寝静まっている時間。
鯉登家では恐らく全員が起きて動いているだろう。
父も母も朝は早く、鯉登もまたある事のために朝早く起きていた。
最初こそ眠たかったが、しかし今では慣れたもので自然と目を覚ますまで体には刻み込まれていた。
ある事とは、雪乃との逢引である。
今なら素直に言えるが鯉登は雪乃に一目惚れをした。
気に入らないと反発していたのだって、感じたことのない感情が怖くて雪乃に八つ当たりしてしまったのだろう。
今思えば本当に子供っぽくて恥ずかしいのだが、しかしそれもまたいい想い出でもあった。
身支度を終えた鯉登は今日贈る花を手に持つ。
鯉登は紫色に染まっているその花びらに気持ちが雪乃に伝わるようにと唇を寄せた。
「さて…」
鯉登は時計を見て時間が迫っているのに気づく。
そしていつものように誰にも気づかれないように裏口から家を出た。
やはり外は静かだった。
夜に比べて活動している人が少ない早朝は動物さえ眠っており、人の気配すらない。
早朝の仕事をしている人と擦れ違いにならなければ本当にこの世界には自分一人しかいないと思う程だ。
隣同士とは言っても鯉登家の屋敷も川畑家の屋敷も広いためそれなりに歩く。
それでも鯉登は欠かすことなく毎朝通い雪乃との逢引していた。
もう何年も通っている道を進むと川畑家の裏口が見えた。
まだ雪乃の姿はない。
しかしそれは当然だ。
わざわざ鯉登は雪乃が来る前に来ているのだから。
一日の最初に雪乃を見ていいのは自分だし、そして自分を一日の最初に見ていいのは雪乃だけだと鯉登は思っている。
それは所謂独占欲というものだ。
それに想い人を待つ、というのは意外にいいものだ。
まだ薄暗く、グラデーションを描く早朝の空を見上げ想い人を待つ時間を楽しんでいると裏口が開いた。
そちらに目をやれば雪乃が出てきた。
「おはよう、音之進」
雪乃は鯉登の姿に気付くと嬉しそうにはにかみ朝の挨拶をする。
軽く小首をかしげる彼女の動きに合わせて、彼女の美しい黒髪がサラリと流れた。
急いで来てくれたのか、髪が零れているのが見えて鯉登はその髪に手を伸ばす。
そして耳に掛けるのを装って雪乃の肌に触れた。
頬を撫でるような仕草で耳に髪をかけてやれば雪乃は驚いたのかビクリと肩を揺らす。
それが可愛くてつい揶揄ってしまう。
「髪が荒れちょった…寝坊でもしたんか?」
そう言えば雪乃の顔はあっという間に真っ赤に染まった。
まるで茹蛸のような雪乃を見て鯉登は満ち足りた気分になる。
きっと雪乃は恥ずかしく感じたのだろう。
きっと扉の前でも身なりを整えてきたのに自分に指摘され女として恥ずかしい所を見せてしまったと思ったのだろう。
だからこそ鯉登は満ち足りた気分になった。
こうして意識されるのは自分だけだと思うと気持ちが高揚する。
本当は頬を撫でるにしても偶然を装うのではなくちゃんと触れたかったし、照れを隠すために俯くも髪から覗く耳も赤くなっていて隠しきれていない雪乃を思いっきり抱きしめこの腕に閉じ込めたい。
腕にさえ閉じ込めればきっと雪乃はもう周りには目を映さないだろうと。
一日中自分だけを考えて、愛して、想ってくれるだろうと。
何かのついででしか彼女に触れれない今の関係が歯がゆく、切なく、悲しく、辛く…そしてたまらなく愛おしいかった。
揶揄うのだって雪乃が可愛くてつい揶揄ってしまうのだ。
ついクツクツと笑い声を零していると俯いていた雪乃からジト目を貰い鯉登は『すまん』と謝る。
そしてご機嫌伺いのためにと装って今日の贈り物を渡した。
「そう拗ねいな、これをやるから
機嫌を直してくれ」
そう言って花を渡せば雪乃は表情を和らげ微笑んでくれる。
それを見ていつからこんな表情を見せてくれるようになっただろうかと思い出す。
最初に渡した花は覚えている。
アネモネを渡した時、まだ雪乃は鯉登の想いに気付いていなかった。
叔母から聞かされた時ショックだったのは今ではいい思い出である。
しかし少しずつ雪乃に渡す花の意味に想いを乗せていき、今やっとその苦労が結ばれそうになっている。
鯉登は気づいていた。
雪乃が自分に想いを寄せている事を。
自分だけの秘めた想いならばきっと気付かず一杯一杯でこうして逢引なんて続かず花も途中で断念していただろう。
だが母や叔母、更には家から代々仕えて雪乃との恋を応援してくれている使用人たちのアドバイスや相談に乗ってくれたおかげで雪乃の心を鯉登が掴むことが出来た。
「仕方ないわね、機嫌を直してあげるわ」
雪乃は弾んだ声でそう呟いた。
その声から嬉しさが伝わり、鯉登は雪乃が喜んでくれたことに嬉しく思う。
今日渡した花の名は『カラー』。
和名は『
和蘭海芋』。
原産地は南アフリカで、そのため入手は困難だったが花言葉が気に入って母に無理言って入手した。
そして、花言葉は…―――『夢見る美しさ』。
雪乃は綺麗になった。
初めて会った時は短かった髪も風に吹かれればさらさらと流れるほど美しく背中まで伸ばしていた。
子供らしくプニプニだった手や足も今ではスラリと細くなり、腰だってきゅっと締って女性らしさが服の上からも見て分かるほど成長していた。
肌も令嬢として学んでいくうちに太陽に焼けた健康的な小麦色から色白へ変わった。
拾われる以前は庶民だったため畑や動き回って出来た傷や手のマメも今や綺麗な肌に生まれ変わり、きっと事情を知らない者から見た今の雪乃は生まれながらの令嬢だと思うだろう。
義母同様容姿が整っていることから、美人親子と羨ましがられる事も多々あるほど雪乃は美しくなった。
それ全て雪乃の努力と…鯉登への想いが雪乃を美しくしているという。
雪乃の母である叔母から『恋した女は美しくなるものよ』と聞かされた時は体が震えるほど嬉しかった。
想い人の女が自分の為に美しくなっていくと聞かされれば心を傾かせない男はいないだろう。
だからこそ、思う。
―――ああ、このまま閉じ込めることができたなら…
…と。
この目の前にいる美しい鳥を、鯉登はずっと…ずっと閉じ込めたくて仕方なかった。
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