キジバトがホーホーと鳴く早朝。
雪乃は布団を仕舞い、寝巻きから着物に着替え軽く髪を整える。
今日も学校があるためすぐに制服の袴に着替えるのだが、着替えるのには理由があった。
(よし…誰もいないわね)
雪乃はそっと襖を少し開けてそこから顔を覗かせる。
周囲を見渡して誰もいない事を確認してから雪乃は部屋を出た。
廊下を歩くとギッギ、と音が鳴る。
いつもなら気にも留めない程度の音だが、寝静まっている早朝には大きく響く。
出来るだけ音を小さく、しかし急いで雪乃はある場所に向かう。
そこは、裏口だった。
雪乃は裏口の扉をくぐる前に乱れた髪や衣服を直し、緊張と急かす気持ちを抑えながら裏口から出る。
裏口から出ればすでに『その人』はいた。
「おはよう、音之進」
「おはよう、雪乃」
雪乃はその人…鯉登を視界に入れると小さな声でそう挨拶し、それに鯉登も答えた。
たったそれだけだった。
普通のやり取りのそれだけなのに雪乃は嬉しくなって胸がいっぱいになる。
雪乃と鯉登がなぜ早朝からわざわざ裏口で待ち合わせているのか…
それは―――2人は逢引をしているのだ。
お互い学生となり、特に鯉登に至っては朝から晩まで忙しい毎日を送っている。
鯉登家の嫡男としての役目を彼も理解しているし、親の期待に答えようと鯉登も一生懸命学んでいる最中だ。
それは雪乃も理解し、邪魔をしたくないと思っている。
だからこそ雪乃は彼がこうして自由になる僅かな時間を自分のために使ってくれるのが嬉しかった。
だから雪乃は我が儘は言わないようにしていた。
本当はもっと一緒にいたいと思っているが、それは鯉登を困らせる言葉だと知っていた。
幸せを噛みしめていると鯉登の手が垂れていた雪乃の髪に触れ、そのまま耳へ掛けてやる。
その際頬を撫でる様に指が触れて、雪乃はその鯉登の手にビクリと肩を揺らし鯉登へ顔を上げる。
「髪が荒れちょった…寝坊でもしたんか?」
その言葉に雪乃はカッと顔を赤くする。
照れもあったが、恥ずかしかった。
あれだけ身なりには気を付けていたのに、見られてしまった。
しかもそれを指摘された。
まだ甘酸っぱい想いを抱えている乙女としてはこれ以上に恥ずかしい事はない。
しかし、それだけではないのもまた事実だ。
鯉登に触れられた頬がまるで火傷したように熱くなっているように思えた。
耳まで真っ赤に染まり俯いた雪乃の耳にクツクツとした彼の愉快そうな笑い声が聞こえ、揶揄われていた事に気付く。
俯きながら下からジト目で見上げれば『すまん』と謝ってくれたが、その顔はまだ笑っていたのでムスッと顔を作る。
雪乃が拗ねていると気づいた鯉登はこれ以上揶揄うと雪乃に怒られると思ったのか、ある物を差し出す。
「そう拗ねいな、これをやるから
機嫌を直してくれ」
そう言い差し出したのは一輪の花だった。
雪乃はそれを受け取り、その花を見つめる。
その花は『カラー』と呼ばれる花で、色は紫色をしていた。
この花はまだ貰った事はなく、まだ雪乃は花言葉は知らない。
しかし一輪とはいえ想い人から花を贈られて喜ばない女性はそういないだろう。
その一輪にどんな想いを込められているか知っているならば余計に。
「仕方ないわね、機嫌を直してあげるわ」
雪乃は可愛い一輪の花を見つめ目を細めて微笑んだ。
別段喧嘩をしたわけではないが、これもまた楽しいやり取りのひと時だ。
もう子供のようなやり取りをしなくなったとはいえ、まだまだ2人は素直になりきれない子供っぽさがあった。
雪乃の言葉に、そして雪乃の微笑みに鯉登も答える様に笑みを浮かべる。
僅かな時間しかなく、その中で僅かな言葉しか交わせないが、それでも雪乃には大切な時間の一つだった。
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