岩息が逃げた事で開けられた扉から観客達が蜘蛛の子を散らすように散らばって逃げる。
正気を失い意識をほぼ失っていた水城もそれに気づき、理性を失った化物が外に解き放たれた。
「――――」
水城は岩息と月島と鯉登を探す。
岩息は金塊の在処を示す皮を剥ぐために。
月島と鯉登は敵対している第七師団の所属だからだ。
正気を失っている水城の頭の中では鯉登達は敵と認定されていた。
やっと再会し想いが通じ合ったというのを、今の水城は忘れてしまっている。
刺青と敵を求め水城は素肌にシャツ一枚、ズボンに軍靴を身に包んだけの姿で雪が積もる中を探し回る。
中は観客達や選手たちの熱気で熱くなっているが、外はマイナスの世界だ。
外に出ると殴り合い汗を流していた水城の身体から湯気が上がり、口からは真っ白な吐息が吐き出される。
しかし水城は正気を失っているため寒さどころか痛みさえ感じない。
すると…
―――パァーン…
銃声が聞こえ、水城の意識はそちらに向けられた。
そちらへ雪を踏みながら向かうと、こちらに犬橇で向かってくる子供二人…チカパシとエノノカがいた。
「杉元ニシパ?」
女の姿だが、言い慣れた呼び名で水城を呼ぶチカパシだったが、どこか様子がおかしい事に子供ながらに気づいた。
薄着で歩く水城はチカパシとエノノカを見ても表情を和らぎ笑うどころか、無感情に見つめていた。
その手には月光に照らされ鈍く光らせる鎌と鈍器であるカナヅチが握られていた。
「なんか変だ…!!エノノカ!止まっちゃダメだ!!いけいけ!!」
まっすぐこちらに歩み寄るその異常な姿の水城にチカパシは咄嗟に危ないと判断し、エノノカに橇を走らせるよう言う。
水城の異常さをエノノカも感じたのか従いロシア人に盗まれた犬と橇で水城から逃げようと走り出す。
しかし水城はそれを追いかけるため走り出した。
「杉元ニシパがおかしくなったぁ!!」
水城を怖いと思った事はある。
それはただ見た目もそうだが、チカパシと水城の関りが薄いかったからだ。
しかしバッタの大群に襲われた時、言葉を交わしてからチカパシは水城を怖いとは思わなくなった。
コタンで水城の息子である静秋と遊んだ時の事を聞きたがる彼女は、まさに母だった。
傍に座りくっつく彼女からチカパシは亡き母のぬくもりを感じていた。
勿論インカラマッも姉のようで母のように思っているが、母親という立場からそう感じてしまったのかもしれない。
その水城が恐ろしく感じた。
水城から必死に逃げていたチカパシ達だったが、前方からクズリが向かってきて取り戻した犬橇のリーダー犬であるイソホセタがそれに気づき驚いて進む方向を変える。
クズリを避けるように急に曲がったため橇の勢いに、橇にただ足を乗せているだけだったチカパシが投げ出された。
「チカパシ!!」
ゴロゴロと転がるチカパシにエノノカは橇を止めようとしたが、イソホセタは止まらずクズリから逃げるよう走っていく。
残されたチカパシにクズリが襲い掛かろうと距離を詰め、襲い掛かろうとするクズリにチカパシは転がっていた銃を手に取り振り回す。
「あっちいけ!!」
振り回した銃がクズリに当たったが、クズリは一歩も引かず再びチカパシに襲い掛かる。
カッと鋭い牙を見せるように大きな口を開くクズリにチカパシは咄嗟に横向きにした。
その銃が大きく開いたクズリの口に押し込まれ、チカパシは何とか九死に一生を得た。
押し倒されたチカパシは銃で口を咥えさせ噛まれないようにしながらもなんとか必死に押し出そうとした。
しかし獣と男とはいえ子供では力の差は歴然だ。
それでもチカパシは必死に足掻いているとクズリが突然驚いたように声を上げ、チカパシから離れた。
チカパシは驚きながらもクズリが振り向いた方へ目を向ければ…
「リュウ!!」
二瓶の犬であり、その二瓶から熊を狩るために躾をされたアイヌ犬、リュウがいた。
リュウは初めてクズリと会った時クズリの危険性に気づき距離を置いていたというのに、チカパシの危機に駆けつけ、勇敢にもクズリのしっぽを噛んでチカパシの危機を助けた。
その隙にチカパシはクズリから銃で庇った際落ちた銃弾に手を伸ばす。
しかしそれに気づいたクズリがリュウからチカパシへと標的を戻し、襲い掛かろうとしていた。
間一髪銃弾を取ることができたが、動きは野生動物の方が俊敏であるため再びチカパシは襲われそうになった。
しかし、
「うあらあッ!!」
水城が持っていた鎌をチカパシとクズリの間に向けて振り下ろす。
正確にはクズリに向けて、ではあるが、殺気に気づいたクズリは咄嗟に回避し、水城の振り下ろされた鎌はそのまま地面に刺さってしまった。
その手をクズリは噛みつくも、カナヅチで殴られそうになったのに気づいたのか水城と距離を置く。
水城とクズリは対峙し、お互い雄たけびのような声を上げる。
その隙にチカパシはイソホセタ救出の際鍵を開けるために撃った銃から用済みの弾を弾き飛ばし、新し銃弾を銃に込めようとした。
カナヅチや鎌を手に立ち向かってくる水城にクズリも己の牙や爪で応戦していた。
しかし、ジャキ、と銃の音に気づき、クズリはその音の方…チカパシの方へと見る。
「わわわッ!」
チカパシはこちらに標的を変えたクズリに慌てて弾を入れたが、慌てすぎたのか中々収まらない。
谷垣の銃は子供が持つには大きすぎる事や、チカパシはまだ銃を扱い慣れていないのもある。
しかし、慌てるチカパシの後ろを谷垣が…全裸の谷垣が、チカパシのフォローをするように銃に弾を入れた。
「一発だ!勝負は一発で決めるぞ!そのまま引き金を引けチカパシ!」
こちらに向かってくるクズリに照準を合わすように支えてやり、谷垣はチカパシに銃を撃たせる。
谷垣の言葉に従い、チカパシはまだ小さな指で引き金を引く。
大人の扱う銃だから思ったより硬かったが、銃口から弾丸が射出した。
その弾は見事にクズリの額に命中し、クズリはその場に倒れ、息絶える。
「谷垣ニシパ!これが…これが勃起?」
「そうだチカパシ…これが勃起だ!!」
水城が正気だったのなら、『子供になんてことを教えてんのあんた…』と谷垣は水城に冷めた目で見つめられただろう。
しかし、これは男同士しか通じない何かがあるのだ。
チカパシがクズリを仕留めたその時、水城の目の前には岩息が…全裸の岩息が立ちふさがっていた。
「あなたとはケリを付けておきたい」
そうこぼして岩息は温度差のためか、はたまた熱気か…肌から湯気を立てながら水城の前に立った。
正気を失っている水城の目の前には『岩息という男』ではなく『金塊を見つける手掛かり』としか見ていなかった。
立ちふさがった岩息を水城は何度も何度も拳を向けた。
「杉元さんのコブシには怒りが込められている…!でも私への憎しみではないだろう!?」
岩息という男は小さいころからそうだった。
人を殴る事でしか自分という男を知ってもらう術を知らない不器用な男だった。
大人になっても変わらなかったため囚人となったのだが、囚人となっても彼は人との殴り合いを止める事はなかった。
彼にとって、殴り合いというものは、その人を知り己を知ってもらう事にも繋がっていた。
だからか、正気を失っている水城の拳を受けて水城がどんな感情を持っているのか理解できた。
「どうしてそんなに怒りを抱えている!?誰に怒っているんだ!?いったい何に怒っているんだ!!」
水城の憎しみの込められた拳を受けながらも、岩息も水城に拳を向ける。
お互いスチェンカの続きのように殴り合いが始まった。
水城は正気を失いながらも岩息の言葉は耳に届いていた。
それま頑なに口を閉じていた水城は岩息の言葉に口を開く。
「う…梅ちゃん……寅次……お母様…ッ――――アシ…アシリパさんッ…!」
口から出されたのは名前だけ。
しかし、水城の脳裏には幼馴染達や静子やアシリパが浮かんでいた。
四人の姿を脳裏に浮かべると水城は更に怒りの拳を強くさせる。
「ワタシ…!!私ッ!!私は…―――役立たず…!!!」
幼い頃、村八分となって追い出されたのは仕方ない事だった。
大人でも村の人間達に追い出されればそこを離れるしかない。
しかし、寅次は守れたはずなのだ。
奇跡の再会をして、一緒にいたのに…水城は寅次を守ることさえできなかった。
吉平だって戦場では立場的に一緒にはいられなかったとしても、常に傍にいたはずだったのに、結局は死んだ。
自分の全てを奪い狂わせた男ではあるが、それでも大切な母の息子には変わらりはない。
その母の元に吉平を一部しか帰せなかった。
息子をちゃんと帰してあげることはできなかった。
様々な理由で母を避けている水城だが、根本にある問題はそこだった。
母…いや、父も母も勘当し見切ったが長男を愛していたし、可愛げがないと言っていた吉平も愛していたし、当然雪乃も愛してくれた人だ。
そんな人から大切な宝を水城は奪ってしまった。
母となり宝を得た水城だからこそ、強くそう思ってしまったのだろう。
アシリパもそうだ。
一緒にいると言っておきながら尾形に奪われた。
今彼女は自分が死んだと聞かされどうしているのだろうか。
悲しんでいるだろうか。
泣いてくれるだろうか。
もしそうなら、全ては自分のせいだ。
自分が弱いから全て奪われ、奪ってしまう。
梅ちゃんから寅次を、母から吉平を、水城は奪ったのも当然だ。
正気を失っていながらもその感情は残っているのか…水城の瞳からは涙がこぼれた。
そんな自分自身に憎しみを向ける水城に岩息はふと語り掛ける。
「許してやりなさい…頑張ってるじゃないですか…そんなにボロボロになるまで…」
水城の憎しみも、そして悲しみも、拳が教えてくれた。
彼女の過去が少し岩息には見えた気がした。
岩息はそう水城に告げた後拳を向けた。
水城も同時に岩息へと拳を向け、お互いのストレートが放たれた。
しかし拳が当たったのは水城だけだった。
岩息は顔面に思いっきり水城の拳を受けてしまい、ガクンと膝をつく。
「そこまでだッ!!もうやめろ!!」
「雪乃!!やめるんだ!!」
理性のある化物VS理性を失った化物の争いを遠くから見守るしかできなかった谷垣達は岩息が膝をついたことで勝負もついたと思い、チャンスだと慌てて駆け寄って止める。
鯉登も水城に向かって走っていたが―――バリバリと音を立てて水城達の地面がヒビが入り、あっと驚く暇もなく足元が崩れ、水城と岩息は谷垣、月島、鯉登と共に落ちた。
その下にあったのは土――ではなく、マイナスを超える温度の水だった。
「ッ―――ひいいい!!!つ、つめたいぃぃッ!!」
水城はその水から顔を出し叫ぶ。
水の冷たさに目を覚ましたのだ。
水城と岩息が戦っていたのは、岩息と月島達がクズリに襲われ逃げ込んだサウナのすぐ近く。
ロシアのサウナには水風呂もセットが基本となっており、ロシア式のサウナであるバーニャの近くには必ず川や湖があった。
水城達が戦っていた場所は氷が張った湖、または川だった。
水城は温冷交代浴の効果のおかげで正気に戻り、慌ててマイナスの水から這い上がる。
「ざざざざむい…ッ!!」
「バババーニャに早くッ!!」
しかし上がったら上がったで地獄だった。
マイナスの水が全身に纏わりつき、日が暮れて更に零度を下回る樺太の気温、身を裂くような冷風のせいで水城の体は悲鳴を上げていた。
カタカタと歯も鳴ってしまうほどの寒さに水城達は慌てて近くのバーニャに駆け込んだ。
「あっっっったかい……けど……今度は熱すぎ…」
冷え切ってしまったなんて言葉生暖かく聞こえるほど冷えた身体にサウナの室温はまさに天国だった。
水城は速足に空いている適当な場所に座りほっこりとしていたが、段々と熱さが強くなっていくのを感じる。
その隣にさりげなく座りながら岩息はこのバーニャで起こったことを(端折って)説明する。
「ほぼ水を掛けて蒸気を出しましたからね…それにヴェニク(白樺の葉を束ねた物)で叩いて血行を促進されると同時に室内の空気をかき回した事で体感温度を更に上げていましたから」
「なんで???」
『私が大変だった時に随分とみんなで楽しんでたんですね???』、と曖昧な記憶しかないが結構やばい状態だった自分を放置してロシア式サウナを囚人(追われる側)と軍人(追う側)で楽しんでいたのだと捉えた。
実際はクズリに追いかけられ敵味方関係なくこのサウナに押し込まれただけであり、岩息が自分の皮を剥がされるのを阻止するために我慢大会を強制的に開催した結果温度が更に上がっただけである。
水城は岩息の説明に自分と子供たち以外の男性達が全裸なのに納得している間に(水城はそういう雰囲気以外では男の裸なんかに動じない)チカパシとエノノカ以外がバーニャに入り、最後の月島が扉を閉める。
「雪乃!!大丈夫なのか!?」
「うん、何とかね…あまり覚えていないんだけど迷惑かけたみたいでごめんね…」
鯉登はバーニャに入りいの一番に水城に駆け寄った。
申し訳なさそうに言う水城に鯉登はさり気なく水城の手を取って立ち上がらせ岩息から離し、ついでに自分の隣に座らせながら首を振る。
「迷惑など思っておらん…ただ雪乃が無事でいてくれたのならそれでいい」
「音之進…」
何食わぬ顔で岩息の傍から水城を離した鯉登に水城は気づかず、ジーンと感激していた。
取られていた鯉登の手を握ると鯉登からも握り返された。
『雪乃…』と鯉登も水城を見つめ返し、お互い見つめ合う。
そんな二人に月島は『ゴホン』とわざと咳ばらいをしてピンク色の空気を散らした。
月島の涙を誘う努力と勇気の甲斐もあってか、水城は月島の咳払いにハッと我に返り慌てて手を放した。
しかし片手だけは繋がれており、月島と谷垣は『暑苦しい』とスンっと表情を無にしながら心を一つにした。
「そういえば…結局雪乃の『妙案』って何だったんだ?」
「え?それはえっと……ん?なんだったっけ…」
「「「…………」」」
妙案があるというからその内容を聞かないまま従ったが、それが終わって気になった鯉登は水城に問う。
だが頭がパーン(意訳)となっていた後遺症なのか、全く思い出せなかった。
水城は約二名の呆れた目線を受けながら笑って誤魔化した。
144 / 274
← | 目次 | 表紙 | →
しおりを挟む