(2 / 3) (オマケ) (1)

静秋は、小学校から帰るため歩きなれた道をトボトボと歩いていた。
何か失敗したわけでも、友達と喧嘩をしたわけでもない。
しかし、彼は今、落ち込んでいる。


「ただいま…」


帰宅を知らせる声をポツリと呟くも、返ってくる言葉は無かった。
いつもなら小さい妹達二人が兄の帰宅を喜んで突進のように駆けつけてくれるのだが、それがないと寂しく感じる。
靴箱に靴を仕舞うついでに、いつも妹と母が置いてある靴の場所を見れば、妹達がお気に入りで履いている靴がない事に気づく。


(ああ、そういえば…今日は検診だっけ?)


朝、母に言われた事を思い出す。
母はただいま妊娠中である。
それも双子だという。
しかも、また妹だ。
妹達が増えることは悪い事ではない。
それだけ両親の仲が良い事だということだし、経済的にも余裕があるのだろう。
ただ、正直……弟も欲しいと思ってしまう。
こればかりは授かりものなため、仕方ないとは思うが一人くらい弟が欲しいと思っても罰は当たらないのではないだろうか。
まあ、幸いなのは、母親が休まず妊娠しているのを材料にからかいやイジメがないことだろうか。
静秋は沈んだ気分のまま、二階にある自分の部屋に戻り荷物を置いた後、そのまま同じ階にある洗面台に向かう。
そこで大人たちに耳にタコができるほど言われている手洗いうがいを済ませる。
静秋も面倒だと思う事はあるものの、幼い妹達がいるので意識して手洗いうがいを徹底していた。
手を拭いて、喉が渇いたのでリビングに向かった。


「おかえり、静秋」


リビングに入ると聞き慣れた声に静秋はビクッと肩を揺らす。
ソファへ目線をやれば、そこには父である尾形がいた。
しかし今日は平日。
本来なら仕事中の父がいるわけがなく、普通なら会社で自分達のために一生懸命働いてくれているはずだった。
それが、家で新聞を広げて寛いでおり、静秋は不意を突かれた形になった。


(あ、そういえば…今日休みとか言ってたっけ…)


父である尾形が務めている会社は大企業ではあるものの、社長が個性的な人で、創立記念日とか言って今日は仕事を休みにしているのだ。
静秋は父から視線を逸らしながら『うん、ただいま…』と返し、冷蔵庫へと向かう。
喉は渇いていないが、何となく父のそばにはいたくなかった。
棚からコップを手に取り、冷蔵庫を開けて冷えたお茶を注ぐ。
たったそれだけなのに、なんだか緊張していた。
気のせいか、それとも気のせいではないのか…分からないが、背中に父の視線が刺さっている気がした。
早く飲んで部屋に戻ろう…とお茶を一気に飲む。
別にその場で飲まなくても部屋に持っていけばいいのだが、今の静秋にそれを考える余裕はないようだった。
しかし、そんな静秋に…


「静秋…お前、記憶戻ったのか」


父の言葉に静秋は飲んでいたお茶を噴き出してしまう。
見事に漫画のごとく噴き出す息子の反応に、疑惑が確信に変わった。


「…………」

「…………」


静秋はギギギとまるで錆びた機械のようにゆっくりと振り返る。
父はこちらを見つめているが、その表情から感情は汲み取れない。
記憶がある、ということから、父も記憶を持っているのだろう。
そう…前世の記憶というものが。


「……も…もどった…」


とりあえず、静秋はジッと真っ黒な瞳で見つめる父の視線から目を逸らしながらポツリと呟く。
その呟きは小さいが、父には聞こえるだろう。
父は『そうか』とだけ呟き、新聞を畳んだ。


「話がある…こっちに来なさい」


そういう父の言葉に、静秋は逃げ出したくてたまらなかった。
ただ、父を無視するのも後々面倒なのでやめた。
怒られる…とは違う。
今の状況では怒られるのではなく、父は悲しむだろう。
そして『静秋に反抗期が来た!!』と母が喜び、そんな喜ぶ母に父も喜ぶだろう。
いくつになってもバカップル、恋人気分の両親に、静秋はげんなりする。
いや…両親の事は嫌いではないのだ。
嫌いではないのだが…反抗期になる事も面倒くさくなるほど二人は馬鹿夫婦である。(誉め言葉の意味で)
渋々父の座すソファの向かいに座る。
テーブルを挟んで向かい合わせに座る息子に、尾形は新聞をテーブルに置きながらジッと息子を見下ろした。


「……………」

「……………」


いや、喋ろよ…と静秋は思った。
話があると言ったのはそっちじゃん??とも思った。
ただ口にできる空気ではないため、口をキュッと頑なに閉じ、父の真っ黒な瞳から逃れるように俯く。


「いつ記憶が戻ったんだ?」


暫く経ったこと、やっと父が口を開けた。
予想していた問いかけに、静秋は『えっと』と恐々と話す。


「今日…学校で…体育の授業があって…」

「ああ」

「それで…バスケの授業だったんだけど…」

「ああ」


静秋はボソボソと話すが、父は相槌を打って聞く。
静かに聞かれるのも言いにくいが、一々相槌を打ってくるのも言いにくい。
それでも静秋はボソボソと話を続ける。


「その…相手のボールが顔に当たって倒れた時頭を打っちゃって…」

「なんだと…?」

「だ、大丈夫!軽傷だったし保健室で休んでたから!!それに僕の不注意でなったことだから!」


『頭を打った』と聞き、ガタリと父が反応した。
静秋は慌てて顔を上げ、フォローすると、父は『そうか』と言って立ちかけた腰をソファに降ろす。
座り直した父にホッと胸を撫でおろす。


「頭を打った時、記憶が戻ったのか」


父の確認するような問いに、静秋は静かに頷く。
静秋に記憶が戻ったと気づいたのは、ついさっきだ。
ぎこちない動き、決してこちらを見もしない逸らされた目、自分を見た時の青い顔…普段の様子とは異なる態度に尾形は息子に記憶が戻ったのかもしれないと気づいたのだ。
尾形は息子の頷きを見た後、口を閉ざし目を伏せたが、すぐに息子へと視線を戻す。
目と目が合う父に、静秋は目を丸くした。
父はいつものように感情が読めないわけでも、怒っているわけでも、喜んでいるわけでもなかった。
悲しい表情を浮かべていた。
父の悲し気な表情を初めて見た静秋は呆気にとられる。


「…静秋…前世の記憶があるということは…俺が水城にしたことも覚えているんだな?」


その問いに、静秋は息を呑んだ。
そんな問いされると思っていなかったのだ。
勿論、答えは…


「……覚えてる…っていうか…思い出した…父さんを想って母さんが毎日泣いてたのも…それを周りや僕に気づかれないように元気なフリをしていたのも……母さんが…僕を育てる事で父さんを思い出さないようにしていたのも…全部…」

「……俺が許せないか…」


バスケの授業で頭を打った時、全て思い出した。
父には頭を打って保健室で休んだと言ったが、本当は思い出した時、情報が一気に脳に入り込んだ事への酔いで保健室で休んでいたのだ。
幸いすぐに収まり、家に連絡が行くことはなかった。
父にそれを言わなかったのは心配をさせないようにである。
母一筋であるが、あれでいて、子供も心から愛している人なのだ。
今だって、頭を打ったと聞いて心配してくれたし、フォローを入れなければ監督不行きだと学校にクレームを入れていただろう。
だから、父の問いに静秋は首を振った。
息子の返答に、尾形はホッと安堵の息をつく。


「静秋」


話している合間に緊張の糸も解けたのか、静秋もホッと息を吐く。
肩の力も抜けていく静秋は名前を呼ばれ、父を見た。
父も静秋を見つめ…


「俺を殴れ」


そう言った。
その言葉に静秋は『へ??』ときょとんとさせ、その場は静まり返る。


「え…え?なんで…え?父さん……そういう…しゅみ…」

「断固として違う」

「だ、だよね…」

「当たり前だろ…そもそも水城以外に殴られても腹立つだけだ」

「……………」


ケロリと言ってのける父に、静秋は思わずチベスナ顔になってしまったのは責められないだろう。
しかも冗談で言っていないのが分かるから余計に。
父は母の事を本当に…ほんっっっっっっとぉぉに、愛している。
母は、強い。
いや、女性は強いものだが、母は常軌を逸している。
母は柔道を嗜んでおり、その帯色は黒。
その師は牛山という男である。
彼は何度もオリンピックで日本を勝利に導いている。
女性関係が全く尊敬できないが、それ以外は尊敬に値する人物だ。
その師を持つ母は、柔道の世界では牛山以外は男であろうと女であろうと負け知らずだ。
しかし、母はオリンピックを目指す気はないらしく、何度も誘われたがその度に断ってきた。
牛山や、顔の利く土方の手助けもあり、後に夫となる尾形と出会うまでは勧誘は止んだらしい。
ちなみに、土方と永倉はよく会いに来てくれるお爺ちゃん的立ち位置であり、本来の祖父母同様、無駄に子供達にお菓子やおもちゃを送り、母に怒られ、また母に内緒で子供達に餌を与えるというループに入っているどこにでもいるお爺ちゃん達である。
そう、どこにでもいる。
…決して彼らの職業は突っ込出はいけない。
ヤのつく職業だと知ってはいけないのだ。
世の中知らない方がいい事もある…と、静秋は齢5歳で知った。
しかし、母が強いのは今世だけではないらしい。
前世から母は強かったらしい。
先ほど母は常軌を逸していると言ったが、前世ではそれを優に超えた力を有していたらしい。
それはもう、白石おじさんが『今世はチンパンジーだけど、前世はゴリラだった』と言い、それを母は『んだとタコ坊主ゴラ』と言いつつも否定しないほどには。
むしろ否定してフォローに回らなきゃいけない立場の父もそれを否定しないほどには、強かったらしい。
ちなみに、チンパンジーの握力は約300キロ、ゴリラの握力は約500キロと言われている。(あくまで推測)
しかし、そうは言っても静秋はそんな母を知らないのだ。
静秋の知る母は、すでにアイヌの女性として生きてきた働き者の女性だった。
父達が知る『不死身の杉元』の姿など一度として見た事がない。
だから余計に、父を含んだ母の鬼神のような強さに惹かれた男達を理解することはできない。
血も顔も仕草も、父寄りだというのに。


「なんで殴ってほしいの?」


父と母は相思相愛すぎるので、小さな喧嘩はしても大喧嘩はしない。
だが、父は時々、わざと母を怒らせることがある。
頻度はさほど多くはないが、母は父に乗せられブチ切れている。
流石に今世は前世ほどの力はないが、父の整っている顔半分をガーゼで埋めたり、包帯男にする程度の威力は持っているようだ。
ちなみに、ブチ切れても母は本気を出していないのだとか。(父情報)
母は夫を愛しているので、本気では怒っていないのだとか。(父情報)
本気になったら、自分なんて一発の拳で…いや、むしろ一本の指であの世逝きなのだとか。(父情報)
それが赤ん坊の頃から見ていれば、流石に静秋も慣れる。
長女、次女も最近慣れたのか、顔をガーゼや包帯で埋める父を見ても、鬼の形相で父を殴る母を見ても動じなくなった。
子供達は『またイチャついてるよ…』としか思っていない。
それでも止めないのは、母も分かっていて父の挑発に乗っていると分かっているからだ。
結局馬鹿夫婦は馬鹿夫婦ということだ。
とはいえ、静秋も一度なぜわざと怒らせることをするのかと聞いたことがある。
語られた内容はクッッッッソくだらなかった。
本人曰く、『本気で怒るあいつが可愛くて仕方ないんだ…いや、普段も世界一可愛い俺の嫁ではあるんだが……殺意のこもった目に俺しか映っていないのがたまらないし、俺の挑発にまんまと引っかかり殴ってしまった罪悪感に苛まれる姿も可愛いし、そんなあいつを慰めながらそのままセックスに持ち込むのもたまらん…その時のあいつはどんなに気分が乗らなくても誘いに乗ってくれるし、どんなプレイでも健気に受け入れてくれるから――――』ここまで聞いていて静秋は『ふーんへぇそうなんだぁ(棒)』と心を無にした。
その時の顏は、前世で白石が脱獄王と呼ばれるきっかけとなった女性と初対面した時の顏にそっくりだったとか。
夫婦喧嘩は犬も食わないとはよく言ったものだ。
犬どころか子供でさえ食べる気を失せる。
そんな父を知っているからこそ、まさか子供にもその性癖を向けてくるとは…と恐々と問う。
静秋の心配を知ってか知らずか…父は話してくれた。


「水城と交際した際…アシリパに言われたんだ…お前は水城が泣いているのを見ていたから記憶があったら殴られると」

「それでなんで殴ってくれってなるの?」

「いや…だってそうだろ?水城はお前のたった一人の母親だ…母を泣かせる父親なんて憎い感情しか湧いてこんだろ普通…」


尾形は脳裏に自分の父親を思い浮かべる。
前世も今世も父親である幸次郎はクズ人間だ。
今世は弟と顔を合わせた事はないが、父親が変わっていないのなら、弟も同じような性格なのだろう。
尾形は前世も今世も水城の事を愛している。
だが、今世とは違い、前世は拗らせすれ違いすぎて、尾形も水城も一人寂しく死んだ。
前世では父親を憎んだ。
すれ違いとはいえ、静秋から見たら自分も父親も変わらない。
だからこそ、尾形は静秋に記憶が戻ったら嫌われると思っていた。
いや、嫌われるのならまだいい方だ。
憎く思われ、一生嫌悪されてしまうのだと思っていた。
だから、アシリパの言葉を尾形はずっと心に留めていた。
もしも、静秋に記憶が戻った時、自分を殴ろうとしたら避けずに受け入れようと思ったし、静秋は心優しいから殴れなくても殴らせてやろうと思った。
それでも静秋が自分を憎んだとしても尾形は受け入れたし、一生彼に詫びて償うつもりだった。
水城と別れる以外は彼の要望を受け入れるつもりだった。
それを素直に伝えれば、静秋はポカーンと呆けた表情で父を見たが、唇をきゅっと噛み、父から視線を逸らすように俯く。


「あの、さ…聞きたいんだけどさ……父さんはさ、前世の時…母さんの事どう思ってたの?」

「どうとは?」

「愛してた?それともどうでもよかった?」


聞きずらいのだろう。
指をもじもじとさせながら、戸惑う声で問う。
その質問の意図が見えず、尾形は首を傾げたが、返ってきた言葉に胸が締め付けられた。
今世はともかく、前世の静秋に…愛する息子に母を愛していたかと聞かれるのは、父親として中々にきつい。
前世は仕方ないとはいえ、尾形だって息子や妻に対して罪悪感が全くないわけではない。


「今世も前世も俺はあいつを心から愛していた…それこそ今世と変わらない想いだった…」

「じゃあ…なんで母さんを迎えに来なかったの?」

「…………」


なぜ、と問う息子の質問は至って普通の質問だ。
愛していたというのなら、妻と子を迎えに行くべきだ。
事情を知らない人間だって同じ質問をするだろう。
だが、あの頃の二人に会ったのは愛や情など生易しいものではなかった。
だからこそ、拗れすれ違ってしまったのかもしれない。


「…なんていえばいいのか…お前の前で言う事ではないんだが……あの頃の俺達はお互いが殺す対象だったんだ…」

「え…殺す…?」


明治時代での両親の事情は知らない。
流石に前世に静秋もいたとはいえ、前世の記憶がない限りは前世の話なんてにわかに信じ難いため、仕方ないだろう。
とはいえ、愛しても迎えに来なかった父達の間に複雑な事情とやらがあっただろうことは静秋も理解はしたが、まさか父と母が殺し合う仲だとは思っていなかった。
はっきり言って、息子としてショックだ。
それが顔に出ていたのか、息子の青い顔に尾形は苦笑いを浮かべた。


「あの頃俺は愛だの恋だの目に見えんそれらを信じられなかったんだ…生い立ちも今以上に複雑だったしな……だから…俺はあいつを殺すことで手に入れようとした」


今も同じ生い立ちだが、母が元気で生きている分、まだマシな人生と言ってもいいだろう。
おかげで気が狂った母を、父の愛を試すという名目で殺すこともなければ、母の愛情を与えられずに育つなどという事もなかった。
片親ではあったが、母の愛情がゼロだった前世に比べて、今世では母の愛情は100倍だ。
尾形は生まれ変わり、母から愛されて育った。
そのおかげかは分からない。
殺し合うことのない平和な時代というのもあるのかもしれない。
だが、父に対して、尾形は復讐こそすれど今世はなんの執着もなかった。


「どうして…父さんは殺すことで母さんが手に入るって思ったの?普通逆じゃないの?」


息子の問いに、尾形は困ったように笑い、頭をかく。
だが、思う。
息子は本当に普通に育ってくれた…と。
今世もどちらかと言えば尾形は感性が人とは違っていた。
タガが外れていたのは前世の方だが、今世も普通とは自分でも思えない。
前世ほどの法律の緩さがあれば、父と弟を事故に見せかけて殺すことだって平然と出来ただろう。
父に執着はない。
だが、憎しみは前世から引き継がれていた。
息子の質問に、尾形は困ったような笑みを浮かべたまま答える。


「殺し合う仲になる前は一応は仲間だったんだ……まあ、ほぼ形だけの仲間で…アシリパと白石に比べると絆なんてあるようでない間柄だったがな…」


水城への愛情は、前世と今世含めてアシリパに勝てるほど深く執念深いと断言できる。
別れると言われても決して頷かないし、自分のそばから離れるなら監禁なんて簡単に実行できる。
勿論、現代の厳しい法を頭に入れ、それ相応の覚悟はしている。
例え子供達を失おうが、水城だけは手放すつもりはない。
子供達への愛情は本物で、傷つけるつもりは毛頭ない。
だが、それを凌駕するほどの想いを水城へ向けているという事だ。
尾形は己の手を見下ろす。


「最初は生きたあいつを手に入れようとした…だが、あいつは俺の手から離れようとした…だから殺そうとした……殺すことであいつの体は燃えて灰になるが、それ以外は全て殺した俺の所有物になるからだ……だがあいつは不死身と呼ばれるほどに豪運の持ち主だ…もしも殺せなかった場合もあいつが俺を憎むことであいつと繋がっていられると思った…あいつの手で殺されても俺の全てはあいつの中に居られると…そう思っていた…」


そして、それは叶った。
流石不死身と呼ばれるだけあって頭を撃っても水城は死ななかった。
そして、水城の中に尾形は憎しみと共に居着く事ができた。
あの頃の水城は、誰よりも尾形を憎んでいた。
そして、尾形を誰よりも意識していた。
自分と別れた後、海賊房太郎や他の輩が現れようとも、水城の中には自分が居続けていたのだ。
これほど興奮するものはないと尾形は今でも思う。
尾形は己の手を見つめながら水城の頭を撃ったあの光景を思い浮かべる。
水城への殺意は無くなっても、あの光景は…水城と対峙した記憶は尾形を高揚させる。
前世ほどの迫力や殺意が消えようとも、尾形にとって水城は水城だ。
父は平然と言うが、静秋には酷く重く聞こえた。


(これも…愛の一つ…って言っていいのかな……なんか…母さんが心配になってきた…)


記憶がなかった頃、アシリパ達の会話を何となく聞いていた時に、父は今世に生まれ変わって丸くなったと言っていたのを、何となく覚えている。
だが、父の母への感情だけは丸くなることはなかったらしい。
前世の話ではあるものの、それを語る父の目に一切の懐かしむ雰囲気は感じられなかった。
静秋の目から見ても、父の目は本気に見えた。
問わなくても分かる。
父は今でも同じ重さの愛情を母に向けている。
だから、静秋は母が心配になった。
息子である静秋でさえ重く感じる父の愛情を、あの母が受けきれるのか…それが心配だった。
だが、


(いや…その心配もいらないか…)


静秋は自分の心配は無用である事に気づく。
いわば尾形と水城は似たもの夫婦というものなのだ。
母も父に対していベタ惚れしている節がある。
でなければ時々煽って殴らせようとする男の元に居続ける事もないだろう。
それも、ほぼ毎年子供を作って育てているのだ。
愛情がなければ嫌になって別れているだろう。
父が引き留めているとしても、母はそれを隠すほど嘘が上手いわけではない。
静秋は、小学生にして、愛の形は様々だと知った。
そこで緊張も解けたのか、小さく息をつく。


「父さんはさ…僕に許せないかとか…母さんを泣かせる父親なんて憎いだろとか言ったよね…だから殴れって…」

「…ああ」


静秋の言葉に、尾形はコクリと頷いた。
逸れてしまった話を戻し、静秋は父の母への愛情の重さを理解し、まだ答えていない父の言葉に返そうと父の目をまっすぐ見つめる。
父も覚悟を決めた目で、息子を見つめていた。


「僕、殴らないから」


その言葉に尾形は目を丸くした。
アシリパから言われてから、尾形は静秋に殴られるのはとっくの昔に覚悟していた。
罵倒されたって受け入れるつもりでもあったのだ。
それだけの事をしてきたと尾形も自覚していたのだ。
だが、息子は殴る気はないと言った。
はっきり言う息子の言葉に、尾形は無意識に『なぜ』と問う。
どうしてだと問われた静秋の頭には、前世、一人で泣く母の姿が浮かんだ。


「…確かにさ…前世は恨んだりもしたよ…僕には母さんしかいなかったから…母さんと姉さんが僕を育ててくれたし……そんな母さんを迎えにも来ない父さんが嫌いだった」


姉さん、とはアシリパの事だ。
静秋は前世では父がいなかった。
その代わり、アシリパが父としての役割をしてくれた。
だから静秋はそれほど寂しくはなかった。
しかし、決して寂しくなかったわけではなかった。
アイヌの村に両親がいない子供なんて珍しくはない。
アイヌの風習から捨て子でも我が子として育てる民族だ。
だから静秋は村に育てられたのも同じである。
だが、父がいない寂しさはあった。
それと同時に、母を毎晩泣かす父を嫌ってもいた。
はっきり言われ、覚悟をしていた尾形は静秋の言葉を受け止め、黙って聞く。


「僕、父さんの事迎えに行こうとしたんだよ…」


しかし、続いた言葉に目を瞬かせた。
表情を崩れた父に、今度は静秋が苦笑いを浮かべる。


「でもさ、出来なかった……怖かったんだ…父さんが母さんを忘れて他の人と幸せになってる姿、見たくなかったんだ……どんなに嫌っていても…憎くても…僕、本当は父さんに会いたかった…父さんにも愛されたかったんだ…普通の家族のようにさ…」

「静秋…」


尾形は息子の言葉に、自分の姿を重ねた。
やはり、血は争えないと思う。
自分も父の愛情を試すために母を殺した。
やり方や想いの重さは違うが、やはり、静秋も自分の血を引く息子であるのだろう。
そして、同時に、罪悪感が増す。
まさか息子が自分を探そうとしてくれていたとは思っても考えてもいなかった。


「だからさ、お互い様だよ父さん…父さんは僕に罪悪感があるみたいだけど…僕だってそうだ…僕が怖がらず父さんに会いにいってればよかったって思う…僕だって父さんや母さんに罪悪感があるんだ」


父にもそうだが、特に母には申し訳ないと思っている。
自分が勇気をもって父を探していれば、前世の母は父と共に生きることだってできたはずだ。
今世は両親は幸せだが、前世の両親にだって本当は幸せになってほしかった。
それが、自分が潰してしまったと静秋は罪悪感を感じている。
前世の記憶があると言ってもまだ小学生。
母の事を想い、静秋は母譲りの琥珀色の瞳から涙が零れた。


「静秋…」


尾形は息子の涙に息を呑む。
息子は本当に瞳以外、自分の血を強く継いでいる。
性格は自分に比べて穏やかではあるが、決して善だけの人間ではない。
父親のように表情筋がほぼ死んでいるわけではなく、笑うし拗ねる子だ。
だが、他の子供達に比べて…妹達に比べて、静秋の心が動くことはあまりない。
だから物心つく頃には静秋は泣くこともなくなった。
いや、正確には人のいる前で泣くことは…だ。
息子と言えど、全てを知っているわけではない。
だから、父親の前で泣く息子を見て、尾形は驚いた。
そして、息子の涙に胸が締め付けられる。
息子を泣かせたのは自分だ。
前世の自分であり、今世の自分でもある。
尾形は息子の隣に移動し、まだ小さく薄い息子の肩に手を回し引き寄せる。
慰めるように息子の頭を優しく撫でた。

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