あれから一年。
未熟児だったため雪乃は体調が戻り次第この家を出ていく事はせず、赤ん坊が安定するまで厄介になっていた。
未熟児という事で正期産児に比べて体は小さいが、何とか病気もなく成長してくれている。
しかし今日、雪乃はこの家を出ていく日となり、2年ほどお世話になった部屋を片付けていた。
「ちょっと兄ちゃん!そんなんじゃ駄目だよ!」
「あ?こんなんでいいだろ」
「だーめ!ほら、
坊ちゃんが不満顔してるじゃない!」
「いやこいつ俺が触るといつもこんな顔すんぞ」
「うそ…やだぁ…兄ちゃん、それ、坊ちゃんに嫌われてるよ…?」
「え?」
鞄に荷物を入れながら後ろから聞こえる春子と千景の声に雪乃はクスリと笑う。
振り返れば春子が兄から幼児を奪い、寝かせてオムツを替えているのが見えた。
その隣には不服そうにしながらも妹が幼児のオムツを替えているのを見学している千景がいた。
『はい、できた』と服を着させ抱っこをする春子に、幼児は物静かに、しかし満足げにしていた。
幼児がかぁかぁ言い始め、雪乃は幼児に呼ばれて振り返る。
母の視線に気づいたのか大人しく春子に抱かれていた幼児は母へ手を伸ばし抱っこを催促した。
それに春子は雪乃に幼児を渡し、雪乃は慣れた手つきで我が子を腕に抱く。
ぽんぽんとお尻を一定のリズムで叩いてやれば幼児はうとうととし始め眠りについた。
母に抱かれ安心したように穏やかな表情で眠る幼児を見て千景はしみじみ呟く。
「しかしまあ…なんとも見事に父親に似たなぁ」
そう呟く千景に雪乃は改めて幼児を見た。
お尻を一定のリズムで叩く母の手や、ゆっくり揺り籠のように体を左右に揺らすその気持ちよさにふにゃりとした無防備な表情を見せており、父親に似ているのか雪乃には分からない。
ただ、顔の作りは確かに父親似だった。
「まさかあれほどお前に執着していた吉平の血が浮気相手くんに負けるとは…世の中分からんな」
雪乃の腕にいる幼児は、雪乃と尾形の血を引いた男児だった。
雪乃の似ている所と言えば琥珀色の瞳のみで、顔のパーツはほぼ父親譲りだった。
これで坊主頭にしたらミニ尾形の出来上がりである。
ただ、あの無感情の目だけは似てほしくはないなと思いながら雪乃は笑みを浮かべた。
「水城さん、準備出来たかしら?」
寝ている隙に幼児の柔らかい頬を突っつけば、寝ているところを邪魔されているからか、それとも相手が千景だからか、まだ幼いのに眉を顰める仕草を見せる。
自分には嫌がるよう顔を逸らすくせに春子がやれば安らかな寝顔を見せる幼児に『やっぱ父親似だわ…』としみじみ思う。
雪乃が軍を抜けた後も雪乃と繋がりがある千景に会いにちょくちょく尾形は来ていた。
吉平以上に雪乃に執着している男はいないと思ったが、尾形も吉平に負けず劣らず雪乃に執着しているようだった。
何度もしつこく会いに来る男にうんざりしていたが、何度会ってもあの薄暗い目を見てしまうと雪乃に会わす気にはならなかった。
気が合わないという点では父親に完全に似ている幼児相手に大人気なく少しばかり腹を立てていると、もう一人の妹であるチヨが覗きに来た。
チヨの問いに雪乃は頷き、春子に息子を渡す。
「今終わりました」
「なら外まで見送るわ」
そう言って雪乃はリュックを背負い肩に銃剣を掛け部屋を出る。
雪乃は今日、この家を出ていく。
軍人の姿だと何かと便利だし、女だと分かり襲われると嫌だからという理由で、軍を辞めても軍服を身に包み拳銃を持ち歩くことにした。
最後に軍帽を被れば、二年ぶりに雪乃は杉元水城に戻った。
雪乃は…水城は雪乃の名を捨てる事にした。
これからは杉元水城として生き、そして息子の成長を見守りながら誰にも嫁がず死んでいこうと決めた。
幸い千景の助けもあって偽造された出生はそのまま使用しても支障はなく、水城は書類上男として扱われている。
玄関を出て門の外に出れば水城は春子達と向かい合うように立ち、春子から息子を受け取りお世話になったチヨ達三人に頭を下げた。
「色々お世話をおかけしました…この御恩は一生忘れません…ありがとうございます」
「恩なんて思わなくていいのよ…もし何か困った事があったらここを頼ってね…微力だけど私達に出来る事ならなんでもするから…」
『ここは貴女の家で、私達は貴女の家族なんですからね』と続けるチヨに水城は頭が下がりっぱなしだった。
今思えば水城は面倒臭い妊婦だっただろう。
息子を子供として認めず、人間としても認めず、無関心を貫き、しかし産めば息子を愛する。
そんな女水城だって面倒くさいと思う。
水城はチヨの言葉に再び頭を下げお礼を言った。
「頼れるところはあるのかしら?」
チヨのその言葉に水城は首を振る。
水城の血の繋がった家族はもう数年前に結核で死に、育ての親とはもう会う資格は水城にはない。
友人だって寅次は死に、梅子にも合わす顔はなかった。
「ありません…ですが一度幼馴染に会おうと思っています…寅次…幼馴染の夫を届けてあげたいので…」
「そう…」
吉平の一部は千景が届けてくれた。
その時の母は泣き崩れたという。
それを聞いて無理もないと水城は悲しく思う。
生き残っている長男とはもう縁を切ったため他人も当然だろう。
あの母の事だから愛娘を傷つけた兄を再び迎え入れることはない。
その次には最愛の夫を亡くし、そして愛娘をも母は失っている。
吉平からも母は憔悴しきっており以前のような美しい母はもういないと聞いた。
それほど家族の喪失は母にとって辛い事だったのだ。
それなのに吉平さえも失ってしまい、水城は母が心配だった。
だが今更道を外れてしまったというのにどんな顔で会えばいいのか水城には分からなかった。
母に会うという事は鯉登とも会う事になるだろう。
だから水城は母のいる家へと足を向ける事はできなかった。
鯉登からしたら水城は裏切り者の何ものでもない。
自分以外の男と寝ただけではなく、子供を作り産み育てるのだ。
自分が鯉登なら絶対に許さない。
水城の言葉にチヨは否定も肯定もしなかった。
ただそれを聞いて頷くだけで『その後は?』と聞く。
「その後は北海道に行こうかと思います」
「北海道?どうして?」
「北海道では砂金が取れると聞いているので…幼馴染は目を悪くしてその渡米や医者に掛かるお金が必要なんです…」
「砂金って…それもう取りつくされたって聞いたぞ?行っても金なんか取れないだろ…それにお前、渡米や医師に掛かる金っていったら相当だろう?はっきり言って赤の他人の幼馴染にそこまでする必要あるのか?お前はもう一人じゃないんだ…坊の事も考えてやれよ」
千景の言う通り水城も砂金は取れないと思っている。
眉唾ものだと分かってはいるのだ。
だが、それに賭けるしか水城が200円もの大金を稼ぐ術はない。
女なのだから体を売れば多少の近道になるだろう。
世の中には傷がある女や死体にしか欲情しない男がいるのだから整った容姿と若さを持つ水城なら何人かは常連も出来るだろう。
だが、と水城は腕にいる息子を見る。
こんなに可愛い我が子と出会ってしまった水城はもう男を相手にする気はない。
別に体を売らなくても腕っぷしがある水城なら用心棒の仕事もある。
必ずしも体を売らなければならない事もないのだ。
それでも200円という金額はデカすぎた。
「それでも私はその噂に縋るしかないんです…寅次に梅ちゃんの事を任されたので…私は寅次を守れなかった分、寅次との約束の少しくらいは守りたいんです…」
水城は真っすぐ千景を見上げた。
その目は母の強さ、そして軍人としての強さを見せており、あの不死身の杉元は母となり更に強くなった証拠でもあった。
千景は男の強さと女の強さを兼ね備えた水城が負ける気がしなかった。
決意が固い水城の意思を変えることは難しいと分かっており、千景もそこまで言うのならともう何も言わないでおいた。
二人の会話を聞いていたチヨは水城に歩み寄りそっと手の中に封筒を置く。
その封筒を見た後水城はキョトンとした目でチヨを見た。
「少ないけれどお金が入ってるわ」
中を見れば結構な額が入っていた。
水城はそれを見てぎょっとさせ封筒をチヨに返そうとする。
「こ、こんなの受け取れません!」
「いいえ、これは貴女と、貴女の子供のためのお金よ…他の方にはもっと少ない金額を渡すのだけど水城さんは私と春子を強盗から助けてくれた恩もあるから…」
水城はチヨの言葉に困ったように千景を見た。
兄の言葉なら聞いてくれると思ったのだが、千景は笑みを浮かべるだけ。
このお金はチヨと春子、千景が出し合ったものである。
他の人にも気持ち程度だが先立つものがないと困るだろうとチヨはお金を渡して別れている。
だが、水城は強盗から助けてくれた恩があったし、何より何だか水城を放っておけなかったのだ。
確信はないが水城は他の女性が歩む道を歩まず、茨の道を進む気がした。
やっと母の情が芽生えかけているというのに苦労させて息子を嫌いになってほしくはなかった。
それもあってチヨは二人の兄妹と相談し少し多めの金額を渡したのだ。
しかし強盗の恩と言っても水城としてはもう一年前の話だし、何より水城は二年もこの家に厄介になっていたため、恩返しをするというのなら自分の方だと断ろうとする。
「貰っとけって…帰る家もないんだろう?いくら戦争帰りって言ったってすぐに安定した職につける保障があるわけでもなし…この金だったら暫く安い家賃の家に住んで仕事をしている間坊をどこかに預けれるだろ」
「だから受け取れないんだって言ってるでしょ…チヨさんと春子さんがどんなに金銭に苦労しているか私だって分かってるもの…このお金があったらチヨさん達だって色々出来るじゃない」
「もう、水城さんったら…そんな気遣いいらないよ?お金はさ、また頑張って稼げばいいんだしさ…水城さん身寄りがないんだからお金は必要でしょう?」
「でも…」
「坊ちゃんはまだ赤ちゃんなんだからひもじい思いさせちゃダメ…これは坊ちゃんの生活費って思えばいいよ」
千景と春子の言葉に水城はつい息子を見る。
母の腕に静かに抱かれている息子は水城が育てることになった。
千景の養子として出すつもりだったが、水城は息子を手放せなくなり千景には申し訳ないが一人で育てる事を決めた。
だから春子の言葉は耳が痛い。
腕っぷしがいいと言ってもそう簡単に一人で子供を育てるほどの金額を稼げるほど世の中甘くはない。
その為、申し訳ないと思いつつそのお金を水城は受け取った。
重ね重ねお世話になりっぱなしだと水城は三人に深々と頭を下げてお礼を言った。
「じゃあ、水城さんも坊ちゃんも、病気せず元気でね」
「何かあったら絶対に言ってね、何が何でも駆け付けるから」
「じゃあな、坊…大きくなったらうんと勉強して母ちゃんに楽させてやれよ?」
ついに別れの時が来てしまい、それぞれ水城と水城の息子に声を掛ける。
春子とチヨには『あい』とバイバイと手を振っているつもりなのか、手を上下に振る。
しかし千景には顔を顰め母の胸元に顔を埋めた。
それを見て千景は顔を引きつらせる。
「相変わらず俺に懐きもしねえのかよ…可愛いけど可愛くねえなぁ」
「坊ちゃん、男の人には大抵こんな態度だものね」
「兄ちゃんの事お母さんに近づく害虫だと思ってるんじゃないの?」
「春子…お前……兄ちゃんを害虫とか呼ぶのやめなさい…」
水城の息子は女性には幼児らしい仕草を見せるが、男の場合千景のように幼児ながらに顔を顰めて逸らしたり嫌がり全く懐かない。
幼くても男なのかと思えばそうでもなく、どうやら母に近づく男は全て敵らしい。
幼くて小さなナイトぶりに春子とチヨには好評だったが、敵認定されている千景には不評だった。
確かに水城を嫁に迎える気だった頃もあったが、水城にはフラれたんだぞと思いながら妹の1人の辛辣な言葉がグサリと千景に刺さった。
もうこんなやりとりを聞く事がないと思うと水城は寂しさを覚えるが、水城にはやるべきことがあるのだ。
後ろ髪を引かれる思いで水城は三人と別れた。
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