(25 / 27) 軍人時代 (25)

雪乃はゆっくり目を開ける。
視界には天井が映り、雪乃はぼんやりとしていたが、まるで再起動するように思い出す。


「赤ちゃん…」


雪乃は強盗を撃退したその日に産気づいた。
時期的に早産なのだろう。
予定日よりも速い出産に雪乃は痛みに耐えながら困惑していた。
出産は痛いと聞いていたがここまで痛かったのかと、どんなに銃弾を受けても砲弾を受けようとも泣き言を言わなかった雪乃は出産の痛みに泣き叫びたかった。
いつの間にか気を失ってしまったらしく、雪乃は天井を見つめながらそっと己の腹に触れる。
その腹は膨らんではいたが雪乃は何となくこの腹に赤子がいないのを感じる。
いつ気を失ったのかも分からないほど雪乃はあの時必死で無我夢中だった。
不死身といえど出産の痛みには耐えられなかったのか気を失い、今に至る。
だがその記憶の中で痛い事だけは覚えているのに赤ん坊の姿も泣き声も記憶になかった。
元々早産だったし強盗で妊婦にしては無理をした動きをしたのだからもしかしたらと思う。


(赤ちゃん、死んだのかしら)


やっと情が沸いたところだった。
憎しみではなく、興味が沸いたところだった。
里親が見つかり、彼ならと安心して赤子を預けられると思えるほどだったのだ。
なのに雪乃は落ち着いていた。
悲しいとも思わなかった。
ああ、死んだのかと淡々と思う。
涙も流れず、お腹に赤ん坊がいないのに膨らんでいる腹がただただ不思議だった。


(どっちが父親だったのかしら…もう死体は処分してしまったのかしら…というか、生まれてすぐで親の特徴は出ているのかしら)


死んだ赤子に会いたい、ではなく…父親がどちらか確認したいから死体でも赤子を見たい―――そう思う。
そこに母の情はなかった。
結局どっちの血を継いだのか分からない事がモヤモヤするから見たいだけで、死んでしまった赤子に会いたいとは思っていない。


「あら、水城さん…起きたのね…良かった…」


せめて父親が誰か知りたかったな、と思っていると部屋にチヨが入って来た。
チヨの姿に雪乃は上半身を起こして座る。
それにチヨは驚いた表情で雪乃を見ていた。
曰く、今回の出産で雪乃の身体には相当負担がかかっていたらしく暫くは動けないはずなのだとか。
今日だって出産を終えた後気絶してもう二日経っている。
雪乃は戦争での回復力が出産時でも発揮するのかとますます自分は人間離れしているなと思う。


「チヨさん、赤ちゃん、死にました?」


傍に座るチヨに雪乃は質問をする。
チヨは雪乃を見る。
雪乃は何でもないように悲しみもなければ嬉しさもなく、淡白さを見せていた。
今まで赤子に対して淡々としていた雪乃を見ていたのでチヨはそこに触れず、静かに―――首を振った。
首を振るチヨに雪乃は目を丸くし呆気に取られたように見つめた。


「水城さんの赤ちゃんね、30週目で生まれたから未熟児で生まれたの…だから今は保育器の中で必死に生きてるわ」

「……死んでいなかった…」


雪乃は赤子が生きていると聞いても『ああ、そう』としか思わなかった。
ただ確認のように呟く雪乃の言葉にチヨは笑みを浮かべ頷いた。
その笑みを雪乃は『なぜ笑っているのだろうか』と思う。


(なんで笑っているのかしら…嬉しいのかしら…未熟児で保育器の中でしか必死に生きれない赤ちゃんを見て嬉しいのかしら…いつ死んでも可笑しくないのよね……生まれたから嬉しい?なぜ?"お腹にいた赤ちゃん"は一人で呼吸さえできないのに?一人で生きていけないのに嬉しい?どうして?)


そこに怒りも憤りもない。
あるのは、純粋な疑問であった。
必死に生きているというが、そうまでして生き残らせて喜べるものなのだろうかと雪乃は思う。
この先戦争がないとは思えない。
露西亜との戦争が終結しても世界に露西亜以外の国なんて沢山あるのだ。
これからこの国がどこかの国と戦争する事もあるだろう。
何年後か、何十年後か…分からないが将来子供達もその犠牲になるかもしれない。
戦争になれば男も女も関係なくなる。
女だって看護師なら戦争に駆り出されるし、慰安婦という娼婦のような仕事をする女だっていた。
赤子が男か女か分からないが、もしかしたら自分の子供もそれに巻き込まれ命を失ってしまうかもしれないのだ。
まだ死産だった方が赤子もマシだっただろう―――雪乃は戦争を経験したからこそ赤子の将来を憐れんだ。
せっかく生まれたというのに最初から一人で生きていけないのなら、生きている意味はあるのだろうか。
だがもう雪乃は子供を腹から出し母体である自分の役目は終えた。
そんな心配、する必要性は既にない。


「会えますか」


子供は腹から出した。
もう雪乃の役目は終わった。
そう思っていたが、無意識にそう呟いていた。
それにチヨは更に嬉しそうに笑みを深め、頷いた。
ただ歩けるかという心配をチヨはしていたが、不死身の杉元には無用な心配だった。
少し歩くのに違和感があったが、チヨの手助けのお陰で何とか保育器のある部屋に辿りついた。


「この子が貴女の赤ちゃんよ」

「…小さい」


出産を助けるなら保育器は必要不可欠で、無理をしてでも購入した。
何台かあるうちの二三台は使用されており、そのうちの一台の壁に雪乃の名前が書かれたネームが差し込んであった。
その台に案内されまず雪乃が思い呟いたのが小ささだった。
同じ保育器に入っている他の赤ん坊と同じような大きさにも見えるが、何となく自分の赤子の方が小さく見えた。
今すぐ死ぬんじゃないかと雪乃は不安を感じたが、しかしそれに対してチヨはそんな雪乃の素直な感想に笑みを浮かべ頷く。


「早産だったからお腹の中で十分に成長できなかったのよ…でも見て…必死に生きようと呼吸をしているでしょう?」


チヨが雪乃の背を押し、更に保育器に近づかせる。
見て、と言われ雪乃は四方をガラスで囲われている保育器を上から覗き込む。
そこには真っ赤な肌をした小さな人間が横たわっていた。
チューブに繋がれながらチヨが言うように必死に生きようと呼吸をしていた。
眠っているのか、母が来たというのに目を開けてこちらを見る事はなかった。
生まれて二日経ったばかりなため、下半身は切り離したへその緒を覆うようにガーゼのような物で見えず性別が分からなかった。
雪乃の視線に気づいたのかチヨは雪乃に赤子の性別をここで初めて知らせた。


「男の子よ」


雪乃はチヨの言葉に『おとこのこ』と繰り返すように囁いた。
男。
雪乃が欲した子供と同じく、初めての子供は男だった。
ただ父親が鯉登ではなく、雪乃の家柄からして嫡男にはなれない事だけは異なっていたが。
じっとただ何も言わず赤子を見つめる雪乃にチヨが言った。


「まだ抱くことはできないけど、触ってあげることはできるわ…触れてみる?」


そう言われ雪乃は考える前に頷いた。
言われた通り上から見ながら保育器にある二つの穴に腕を入れ、雪乃は恐る恐る赤子に触れる。
あまりにも小さすぎて力加減を失敗して壊してしまったらどうしようと思いながらも手を引っ込める気も起きず震える手で腹から出した赤子に触れる。
雪乃の手に、ふに、と柔らかくて暖かい感触を感じた。
それに驚き雪乃は一度手を放したが…―――母の存在を感じたのか眠っていた赤子の目が開いた。
まだしっかりと開けることができないのか、すぐに閉じてしまったが雪乃はその目を見て息を呑む。


(私と同じ目の色…)


赤子の目の色が自分と同じ色だった。
どちらの父親も瞳の色は黒だった。
だが赤子は自分と同じ琥珀色をしていた。
雪乃の目の色を受け継いだ証拠だった。
目を満足に開けられない赤子はそれでも母を求めているのか弱々しいながらも母を探すように両手両足をぱたぱたと動かしていた。
未熟児ではあるがどうやら元気っ子であるようだ。
雪乃はそのまま動けなかった。
母を探す赤子に手を伸ばしてもいいくらい今の雪乃は腹から出した赤子に情があった。
だが、赤子をただジッと見つめるばかりで雪乃は体が動かなかった。


「…!」


その時、赤子の手が雪乃の指に触れた。
それに赤子はその指が母の指だと分かったかのようにまた手を振りその指をギュッと掴んだ。
まるでもう離したくないと言わんばかりにギュッと握りしめるその手に雪乃は言葉を失うように固まった。
雪乃の指に必死に縋りつく赤子の手はとても小さく、雪乃の指でも半分しか掴めておらず、雪乃がちょっと手を振ればすぐに解けそうなほど弱々しかった。
それでも雪乃はどうしてもこの手を振りほどけなかった。


「暖かい…生きて、いるんですね…」


小さな手からも感じる暖かさに雪乃は思わずそう呟いた。


「暖かい…とても、暖かいのね…あなたはこんな小さな手をしているのに…生きようとしているのね……私が、ずっとあなたを否定し続けていたのに…生きようとしてくれるのね…」


赤子を見下ろすその視界がぼやけ、込み上げてくる感情を表すようにその瞳から涙が零れる。
ぽたぽたとガラスに涙が零れ、ガラス越しに母の涙で赤子を濡らす。
雪乃は下唇を噛みしめ泣くのを我慢しようとした。
雪乃がこの赤ん坊のために泣く資格はないのだ。
最初から愛情も情も与えず、憎しみを向けた。
戦場を利用し殺そうとし、中絶でもこの子を殺そうとした。
思い直して産もうと思っても、人の手に委ねようとした。
情を与えても愛情を一切与えようとはしなかった。
腹にいるのは認めたがそれを自分の子供だと認めなかった。
そんな母親が我が子を想い泣くなど、一生懸命生きようとしている"自分の子供"に失礼である。
だが溢れる涙を止めることはできず、雪乃は我が子の額に己の額をくっつけるようにガラスに額を寄せた。
だがその中から出られない我が子に触れることは叶わず、ガラスの冷たさだけが雪乃の額に移る。
それがまた切なく思う。


「あなたに触れたいわ…あなたを抱きしめてあげたい……こんな母親だけど…あなたが許してくれるのなら…母親としてあなたを愛したい…」


雪乃はガラスに守られているこの目の前の我が子がただただ、愛おしくてたまらなかった。

25 / 27
| 目次 | 表紙 |
しおりを挟む