恵子のポツリと呟かれたその言葉に、小雛は視線を落とした。
(愛…)
小雛は世間から隔離されて育ってきたが、一度妊娠可能かの検査を受けた際に妊娠という単語を知った。
媚薬という単語は分からないが、続いた妊娠という単語にそういうことなのだろうと察した。
だから、気になった。
「お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか」
ずっと黙って恵子の話を聞いていた小雛がふと口を開いた。
伏黒と釘崎は正直このタイミングで小雛が口を開いた事に嫌な予感がしてならなくて、できれば口を塞ぎたい衝動に駆られた。
しかし、それは逆に小雛の興味を引いてしまうと分かっていたためいつでも止められるよう構える。
小雛は2人の過保護までの構えなど気づかない。
聞きたいと問われた恵子は『ええ、いいわよ』と気軽に頷く。
「『愛』と『好き』はどのように違うのでしょうか」
釘崎と伏黒は、先ほど恵子が言っていた『媚薬』と『妊娠』の事を問うのだと思っていた。
恵子も話の文脈からそちらの方向だと思っていた。
だから、五条が溺愛している少女にどのように誤魔化そうかと考えていた。
だが、聞かれたのは『好き』と『愛』の違いだった。
斜め上の問いに、3人は呆気に取られ小雛を見る。
そんな3人の視線を他所に、小雛は恵子を見た。
「なぜそれを聞きたいと思ったのです?」
どうするか悩んだ。
小雛は世間知らずだと接点のない恵子でも分かる。
他人を疑うことを知らず、五条と屋敷から俗物を含めて完璧に守られた少女。
そんな少女から『愛』と『好き』の違いを問われて、恵子はどう答えたらいいのか困惑した。
正直、『愛』と『好き』を教えても小雛には分からないと思っている。
だが、真剣に自分を見る小雛に、恵子は誤魔化そうと思うその気持ちがなくなっていく。
どうしてそれが聞きたいのかまず気になったので問うと、質問を質問で返した恵子の問いに小雛は怒るでもなく視線を落としてポツリと答えた。
「悟様が『愛』と『好き』は違うのだと仰ったのです…悟様の『愛』と雛の『好き』は違うから…雛がもう少し大きくなって意味を知ってから気持ちを受け入れてほしいと…」
「それは…小雛様は五条のことは『好き』だけど『愛』してないということでしょうか…」
ずっと考えていた。
ずっと、心の端に五条から送られた言葉が張り付いて離れなかった。
恵子の言葉に小雛は首を傾げる。
「分かりません…雛は悟様が『好き』です…でも…雛の悟様への思いを『好き』か『愛』か決めなければならないのか分からないのです…」
「…………」
伏黒と釘崎は目を丸くさせてお互いを見る。
まさか小雛がそんなことを悩んでいるとは思っていなかったのだ。
五条と小雛の関係は良好だと思ってはいたが、小雛から五条へ向けられる感情は恋愛ではなく、親愛だとばかり思っていた。
それは小雛と五条の年齢差があるのと、2人の間に甘い雰囲気が感じられなかったからだろう。
だが、小雛はちゃんと五条を異性として意識していた。
それに2人には意外で、そして複雑だった。
「『好き』も『愛』も多くの意味があります…それこそ人によるけれど…でもそれを知りたいのではないのですよね……私が思う『好き』は結ばれる前の感情、『愛』は結ばれてからの感情だと思っています」
「………」
小雛は口を噤み、視線を落とす。
恵子は『好き』が『愛』に変わり、2人は結ばれると言った。
だが、五条は小雛に『愛している』と言った。
恵子の考えを借りるなら、結ばれていないのに小雛は五条から『愛』を向けられていることになる。
それは『一方的な愛』だ。
そんな関係、小雛は嫌だった。
だけど、どう受け止めればいいのか分からない。
小雛は空っぽで、経験が乏しい。
五条と小町しか知らない自分がどうこの感情を言語化したらいいのか分からなかった。
それを恵子は気づいたらしく、続ける。
「言葉は大切ですね…言葉にしなければ相手には伝わらない…思っているだけではすれ違いが起こって結ばれるべき人と結ばれなくなってしまう」
小雛に対して、恵子は興味が少しあるだけでそこまで関心を向けているわけではなかった。
こうして会おうと思ったのだって、もう日本に戻らないつもりでいるからあの女に対してだらしのない五条があそこまで骨抜きにされている相手を見てみたかったという野次馬根性からくるものだったからだ。
だが、蓋を開けてみれば、その辺にいる恋に悩む可愛い女の子と同じだった。
同じ心から愛する人を持つ女として、彼女の憂いを少しでも晴らすことができたらなと老婆心を持った。
「聞かれたので『好き』と『愛』を私なりに区別しましたけれど、結局見繕ってもこの感情はそんな可愛らしいものではありません…感情…特に愛情なんて受け取り方や考え方は人によって違います……私が彼に向ける『愛』も、彼が私に向ける『愛』も…絶対に一致することはありません」
『愛』と『好き』は言葉として存在し、言葉の意味をちゃんと用意されている。
だが、どれだけ区別されても結局はその乗せられている感情はドロドロで重く醜いものだ。
恵子が彼に向けるこの想いと、彼が恵子に向ける想いは一致することはない。
人の感情がどれだけ重く醜く美しいのか、家柄から知っている。
恵子はまっすぐ自分を見つめる小雛を見て眩しそうに目を細める。
きっと彼も自分に対してこんなにも美しい感情を向けてくれるのだろう、と。
話す内容の意味を小雛が理解できているのか分からない。
だが、それでも、小雛は真剣に恵子の話を聞いている。
小雛は五条からの感情を理解しようと必死になっている。
向き合おうとしている子を恵子は笑うことは決してない。
「『愛』や『好き』に答えはないのです…五条はそれを分かっていて意地悪を言っているのでしょうね…自分が怖いから…小雛様と向き合う勇気がないから」
「怖い……悟様が…ですか…」
五条悟、と言えば最強の呪術師を誰もが浮かぶだろう。
だが、小雛は軟禁されて育ったため、呪術界の事は分からない。
それでも、小雛の世界には小町と五条しかいないため、五条は頼れる人間と思っていた。
そんな五条が恐れているということに小雛は驚いてしまう。
「未成年とか年齢差とか立場とかじゃないですよ?あの人にそんな倫理観はないですもの」
倫理観の言葉には、伏黒と釘崎は即頷いた。
あの男に倫理観を期待するのは、動物に人語をはっきりと喋れと言っているようなものである。
いわば、五条に倫理観を持てというのは無理だという話である。
「『愛』だの『好き』だのと理由を付けて真っ直ぐ向けられる小雛様の眩しい想いを直視できないのです…貴女の真っ直ぐな想いを正面から受け止められるほどあの人の純粋な部分はとっくに塗りつぶされていますからね」
恵子の話を聞いて伏黒と釘崎はあれほど小雛を溺愛していた五条がなぜ小雛の想いを受け止めないのか分かった。
五条はただ単純に小雛から向けられる純粋な想いが眩しくて直視ができないのだ。
「小雛様…『愛』や『好き』なんかでうじうじと腰が引けている肝も器も小さい男なんて殴ってやればいいんですよ」
「悟様を…な、殴る…ですか…」
小雛は恵子の言葉に目が点となった。
まさか五条の婚約者に殴れと言われると思っていなかった。
目を真ん丸にしてパチパチと瞬いて恵子を見る小雛が可愛くてつい『すみません…殴るっていうのは誇張しすぎてしまいましたね』と笑みを浮かべ謝る。
「貴女様の不安なお気持ちは私達では解決できないでしょう…貴女様の心を晴らすことができるのは五条だけです…」
「悟様だけ…」
「小雛様…どうか、五条と話し合いをなさってください…こればかりはお2人でしか解決できない問題です」
小雛に聞かれたから答えたが、こればかりは他人がどうこう言ったって小雛の不安は晴れない。
このままでは恐らく、小雛と五条はすれ違いが起こり、関係は悪化するだろう。
あれほど小雛を溺愛し骨抜きにされている五条が、関係が悪化しただけで小雛を手放すとは思えない。
だが、きっとこのままでは小雛は幸せにはなれない。
五条に惚れられた時点で普通の幸せは訪れないものだが、関係が悪化したことで小雛へ向けられる五条の重い感情が更に激重になり、小雛が危険になってしまう。
ああいう人間が本当の愛を知るとちょっとしたことで拗れに拗れる。
呪術師とはそういう生き物だ。
「話し合い…」
小雛は恵子の言葉は全て理解できるほど世間は知らない。
けれど、恵子が何を伝えたいのかは理解した。
だが、不安ばかりが積もる。
その小雛の不安を察したのか、恵子は優しい声で小雛の名を呼ぶ。
恵子に名を呼ばれた小雛は、不安を表すように俯いていた顔を彼女へと向けた。
「貴女様が不安に思うのは至極当然です…私も彼と想いが通じ合っていてもすれ違いが多かったですもの…」
家柄のせいとは言いたくないが、一般人に寄っている考え方の自分でも一般人の彼との考え方の違いが顕著に出ていることがある。
その瞬間に気づいた時が恵子は一番つらい。
結局生まれの…生きている世界の違いを…彼との壁や距離を感じてしまうのだ。
だから、話し合った。
会話を、言葉を重ね続け、両者の想いをぶつけ合い、お互い歩み寄った。
恵子は両手を差し出した。
その手の平に小雛はそっと重ねると、恵子の手が小さな小雛の手を包み込む。
視線を手から恵子の方へ移せば、彼女はまっすぐ小雛の瞳を見つめていた。
「怖がらないでください、小雛様…貴女様のお言葉なら五条も聞いてくださるでしょう…」
小雛はまっすぐな瞳の恵子から視線が逸らせなかった。
羨ましいと思った。
こんなにもまっすぐ気持ちを伝える事ができる恵子が、小雛はとても羨ましい。
「…悟様は聞いてくださるでしょうか…雛が想いを伝えてもあの方は答えてくださらなかった……大人になって意味を理解してからと仰っていましたが…それっていつのことでしょう…」
思わずぎゅっと恵子の手を握ってしまう。
五条は、小雛が大人になって意味を理解してほしいと言ったが、大人が何歳を指すのか、意味を理解というが『好き』と『愛』の意味はあるのか。
今の小雛には分からなかった。
不安そうに顔を俯かせる小雛に恵子は小雛の手を握り返してくれた。
その手に小雛は俯かせていた顔を上げる。
「大丈夫です…あの人は何だかんだ言っても貴女様にぞっこんなんですよ…貴女様がちょっと勇気を出せば貴女様の言葉は五条の耳に届きます…それでも聞かん坊になっているなら、一発叩いてやればいいんです」
パチン、とウインクする恵子の言葉に小雛は目を丸くした。
殴るの次は叩いてやれと言われた小雛は思わずクスクスと笑ってしまう。
不安そうに沈んでいた表情を浮かべていた小雛に笑みが浮かんだのを見て、口を挟まず傍観に徹していた伏黒と釘崎の表情も和らぎ安堵した。
「ふふ…そうですね…恵子様の仰る通り、聞いてくださらなかったら叩いてみてみます」
恵子の雰囲気に釣られ可笑しそうに笑う小雛に、恵子も目を細め微笑んだ。
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