(2 / 38) ツェッド (2)

ボコリ、と泡が上がっていく。
女は膝を立て顔を埋めていたが、その音に目をうっすらと開け少し顔を上げると目の前が一瞬ぼやけたが、すぐにクリアに変わり、周りを青く染める。
そこはまるで水中のように青一色だった。
泡が上へと上がっていくのをまた見え、女は重そうに顔を上げて上がっていく泡を目で追った。
その途中、女の頭上を巨大な影が通り過ぎた。
目で追っていた泡がどれだか分からなくなり女は興味を失ったように上げていた顔を下げた。
ふと横へと気配を感じそちらを見れば髪の毛が舞う。
女の髪の毛は周りの青色に負けない美しい青色をしており、その髪は一本一本空中に舞う。
舞う髪の毛の間に見えたそれは目の鋭いサメのような生き物だったが、その姿は人型に近い。
しかし姿が人に近くとも顔はサメのような顔であるため、人間に間違えられることはなく、彼らは人間側から見れば『化け物』だろう。


「来たぞ」

「そう」


女は化け物をじっと見つめた。
化け物はパカリと口を開け何十本もある鋭い歯を見せ、なんと喋ってみせた。
しかし口は開けたままで動かず、化け物の言葉は人間には聞こえず、女にしか聞こえない。
化け物の言葉に女は表情一つ変えることなくその蹲った場所から離れる。
その場から離れると女の体が光に照らされる。
その肌は白く美しい…しかし…


足はなく、その代わり魚の尾が上半身と繋がっていた。



****************



入ってきたのは年老いた人間の男だった。
男が入れば目の前は一面ガラス張りの水槽だった。
部屋も広く、奥行きも高さもクジラを入れれるほど十分あり、その水槽には小魚やサメやマンボウなど一般的な魚もいる。
そこはまるで水族館だった。
否、そこは男のための水族館である。
女は男が入ってきたのと同時に男の目の前に現す。
男は姿を見せる女に目を細め上へ下へと目を滑らせた。
その女は上半身は美しい女だったが、下半身は魚…そう、人魚だった。
人魚は後ろに先ほどの化け物を含んださまざな魚の化け物を率いて男に頭を下げて見せる。
化け物達も女に続き静かに頭を下げる。
自分に敬意を表す人魚達に男は頷く。


「相変わらず美しいな、リィリンよ」


挨拶もなく男は目を細め人魚を称え、人魚…リィリンは頭を更に深々と下げ一礼し、下げた頭を上げる。
男と目と目が合えばニコリと笑ってみせれば男はそれに満足気に頷き笑った。


『おはようございます、ベイジル様』

「うむ…挨拶もいいがリィリンよ…私の近くに来なさい」


本来なら分厚い水槽の中にいるリィリンと男の声はお互い聞こえない。
しかし金が腐るほどある老人は金をこれでもかとつぎ込みリィリンのためにこの部屋を作ったのだ。
そのため分厚い特殊ガラスと水中の中でも外にいても男と会話ができるよう施されているのだ。
男の言葉にリィリンは笑みを浮かべ頷き美しい尾を使い上へと浮上する。


「リィリン様…タオルでございます」


上へと上がれば、水族館のような重々しい光景ではなく、プールのように機械など一つもない広々とした空間だった。
頭上には温室のようにガラスが張られ、晴れることのない空をリィリンに見せていた。
その空だけがこの空間で時間の流れを感じさせるものであった。
傍に控えていた使用人数人がプールの中央に繋がっている橋を渡って、中央に移動する。
この中央の床の下が、あの老人のいる場所なのだ。
リィリンは座るように上がり、使用人の1人からもらったタオルで体の水分を拭う。
その間に使用人2人がリィリンの髪の水分をタオルで吸い取っていく。
髪の毛を拭いてもらい軽く結ってもらって垂れないようにした後リィリンが水中につけていた尾の水を拭ったのを見計らいもう一人の使用人が服を手に取って歩み寄ってきた。
その手には綺麗な上質の衣服があり、それはズボンではなくロングスカートだった。
令嬢のような気品あるデザイン、そしてリィリンの性別が女性というのもあるが、ズボンではない理由があった。
というよりかはリィリンはズボンをはくことはできないのだ。
その理由は勿論足にある。
人間達が作る空想の物語の中には陸に上がると人間の足になる人魚がいたり、魔女の薬で人間そのものになるというファンタジーな事があるが、少なくともリィリンのいるこの世界ではそんなご都合主義な設定はない。
魔女、魔法使いは存在するし、人魚を人間の足にする薬を作れることは作れるが…生憎とその薬に必要なのは薬の材料もだが、一番の問題が技術と魔力である。
人魚は魔力が効きずらい体質の種族なため、薬はよっぽど強い魔力の持ち主でなければ効かず、人間が作り出した物など全く効かない体質である。
そのためどうしても魔女、魔法使いでは人魚の尾を人間の足にするのは出来ない。
ただし、魔女たちの上のランクにあたる『魔力使い』達ならば作れるかもしれないが。
魔力使いは簡単に説明すれば魔女や魔法使いよりも強い魔力の使い手である。
しかし人間の世界では魔女と魔法使いの方が広まっており、魔力使いの存在を知っている者は少ない。
それに人魚に効く薬を作れる魔力使いが1人いるかいないかくらい人魚は魔力耐性があった。
だからどうしてもリィリンの足は魚のままになってしまうのだ。
スカートをはくのはただ単にリィリンが女性だから、または男の趣味だからではない。
ここはHL。
異界と人間界が重なり合い混ざり合った場所。
人間だけではなく、異界人なども多くいる。
しかしリィリンは人間でも異界人でもなく『人魚』である。
人魚は古来より不老不死の伝説があるのは有名だろう。
その伝説を血眼になって探す人間もいるが、それは異界人でも同じである。
そのため、人魚はひっそりと生きていたのに人間や異界人に乱獲されてしまい、今人魚がどれだけいるのかリィリンには分からない。
もしかしたら海にはまだ多くいるかもしれないし、もしかしたらリィリンとリィリンの妹が死んでしまえば人魚は絶滅し、本当に伝説の生き物になってしまうかもしれない。
使用人が持ってきた車椅子に手伝ってもらいながら乗せてもらい、リィリンは身支度が済み老人の下へと向かう。


「旦那様、リィリン様が参りました」


リィリンは使用人に車椅子を押されながらエレベーターで降り、男がいる自身の部屋でもある一室の扉の前に車椅子で押されながら着く。
扉の左右に立っていた使用人がリィリンの姿を見て扉を開け待ち一礼する。
部屋に入れば、まず出迎えてくれるのは水槽の廊下。
この部屋のほとんどが水槽に改装されているため、人間のための場所はこの中央に続く廊下のような場所と、男がいる中央部分のみである。
それ以上はすべて水槽であり、すべて水となっている。
男は使用人の言葉にリィリンが来た事に気付きこちらに振り返り待っていた。
そんな男にリィリンはにこりと美しく笑みを浮かべる。


「ベイジル様遅れて申し訳ありません」

「構わぬよ、リィリン…女という者は支度が遅い生き物だからな」


ベイジルと呼ばれた老人は高圧的な態度だったが、この場にいる誰もがその高圧的な態度に対してなんの反論もなければ反応もない。
リィリンはニコリと笑みを深め『ありがとうございます』と頭を下げた。
ベイジルはリィリンに歩み寄りリィリンの青く美しく柔らかい髪に手を伸ばし、一房掬い上げ口づけをする。
そんなベイジルにリィリンは笑みを深めた。

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