「I have a bad feeling about this.」 爽やかで甘くて
犬飼くんとお付き合いを初めて1か月、あまり付き合っているという実感はない。
この1か月、特に二人で何かをして過ごすということをあまりしていなかった。
高校が夏休みの時にお付き合いを初めていたのだが、先週夏休みが終わって新学期が始まった。
学校が休みの間もボーダーの任務はあるので、顔を合わせてはいたが、ボーダーの活動でそこそこ忙しい日々をお互い送っていたので、どこかに出かけることはできず、ボーダー基地内で話をしたり、個人ランク戦をしたりと付き合う前とさほど変わらない付き合い方をしていたように思う。
学校が始まってから学校で犬飼くんを見るたびに、私あの人と付き合ってるんだなぁ、なんてまるで他人事のように思っていた。私と付き合ってからも変わらず犬飼くんは女の子みんなに優しいし、常に周りに可愛い女の子がいる。
以前と変わらないあの優しい顔で対応しているのを見ていると、私本当にあの人と付き合ってたっけ?となるのだ。
まぁ私が犬飼くんと付き合う事になった時に一つだけお願いしたことがあって、それが「お付き合いを公表しないでほしい」だった。
そのため、私と犬飼くんが付き合っていることを周りは知らないに決まっているし、犬飼くんに好意を寄せる女の子たちが犬飼くんの周りに集まるのも仕方のないことだった。
先ほども廊下を通って犬飼くんのいる2-Dの教室の前を通ったが、窓から犬飼くんを見つけた時に可愛い女の子二人と男の子とで四人、楽しそうに話していた。漫画だとグループ交際が始まるやつじゃないか、なんて思っていた。
私はというと、さっきまで体育の授業があって、体育館でバドミントンをしていた。
かなり暑くて汗をかいたので、終わった後に更衣室に戻って着替えをする時に汗拭きシートを使って念入りに体を拭いた。
汗臭いのは女子としてあるまじき事だ。
みんなでワイワイ話しながら着替えていたが、中に着ていたキャミソールが汗でかなりびしょびしょになっているのに気付いた。
この後もう一回着るのを躊躇うレベルだ。
せっかく体は綺麗にしたのに、汗まみれのキャミソールは着たくない。
替えを持ってくるべきだった。
「キャミソール汗でびしょびしょだ〜どうしよう」
「脱いじゃえば?」
横で友達がそう言ってくる。
そんな友達は下着にそのままシャツを着てボタンを止めているところだ。
確かにこれはもう脱いでしまっていたほうが快適だろう。
しかし一つ気になることがある。
「下着透けない?」
下着の上からワイシャツを羽織って確認する。
普段からインナーを着ていなくて下着の色とかラインがはっきりわかる子を見ると、ヒヤッとすることがある。
「え〜大丈夫でしょ」
もう一人の友達がぐるっと周りから見てそう答えてくれた。
友達がそういうなら、と今日は比較的地味なデザインで目立ちにくい色の下着だし大丈夫かと判断してそのままボタンを留める。
それにあと1時間授業を受けたらホームルームで、帰るだけだ。
心配しすぎだったかなと自分に言い聞かせて着替えを終わらせた。
更衣室から教室へ友達と話しながら戻る。
会話のネタは次の英語の授業で行われると言う噂の小テストである。
「お昼にB組の子に聞いたけど、B組も今日小テストあったんだって」
「え〜いやだなぁ」
私はあまり英語が得意じゃない。
一応A組に所属していて成績はまぁいい方だと思うけど、それでも英語には苦手意識がある。
先生に当てられた時はいつもドキドキだ。
「B組の子に内容聞いてきたから大丈夫じゃない?」
「いやいや、あの先生なら各クラスで内容変えてくるよ」
「確かに、最初にやったクラスが不利になるもんね」
進学校ということもあって、勉強には力を入れており、こうやってたびたび小テストが行われる。
クラス分けも学力順だし、成績も上位五十人は掲示される。
三人であれこれ話していると前から犬飼くんが一人で歩いてくるのが見えた。
一人でいるのは結構珍しいなと思いながら、特に話しかけることは考えておらず、ちらりと見るだけにする。
手に数学の教科書が見えるので、会長か誰かに教科書を借りに言っていたのだろうか。
そのまますれ違うだけかと思っていたが、彼は違ったらしい。
すれ違った瞬間に声を掛けられた。
「ピンク、見えてる」
ピンク、そう言われて私は3歩ほど進んでから、あわてて後ろにいる犬飼くんの方を振り返った。
しかし、相手はこちらを見ることなくそのまま自分の教室へ入って行ってしまった
。
ピンク、それが意味するのはおそらく私の下着の色だ。
そう、今日、私はピンク色の下着を着ているのだ。
やっぱりシャツから透けていたようで、恥ずかしくなって、持っていた体操服が入った袋を胸の前に抱える。
少しでも下着が透けて見えないように。
「どうしたの?」
「なんか忘れ物?」
突然振り返った私を心配して二人が声をかけてくれた。
どうやら犬飼くんとのやり取りは気づいていないようだ。
それにほっと息をついて、二人を追いかけるように歩き出す。
「なんでもないよ。来週掃除当番だったこと思い出して」
「なにそれ〜」
「急に振り返るからびっくりしちゃった」
「ごめんごめん」
次からはキャミソールの替えも持ってこようと心に決める。
もう少しで自分のクラスに入るというところで、今度は後ろから声を掛けられた。
「ごめん、ちょっといい?」
慌てて振り返ると、犬飼くんがいた。
学校で面と向かって話しかけてくるなんて付き合ってから初めてではないだろうか。
驚いて声が出なかった。
「犬飼君どうしたの、珍しいね」
「何、ボーダー関係?」
私が何も言えないでいると、友達二人が犬飼くんに話しかける。
実はまだ友達二人にも犬飼くんと付き合っていることを言えずにいた。
この二人には言ってもいいかなと思っていたけど、何となく照れくさくて言えなくて、ずるずる引き伸ばしてしまい、今に至る。
二人のリアクションが怖いのもあったけど、わざわざ報告するのもどうかと思ったのだ。
今の段階では私と犬飼くんの共通点と言ったらボーダーくらいだし、まさか付き合っているとは夢にも思うまい。
実際付き合う前に犬飼君が高校で声をかけてくるとしたら、ボーダー関係の事だった。
二宮さんの伝言をきいたり、同学年での集まりについてだったり。
「いや、今日は関係ないよ」
犬飼くんは二人に愛想よくにっこり笑って答えて、私の方を見る。
「ちょっと、こっちおいで」
それだけ言うと、素早く私の手を取り、A組の前も通り過ぎて階段の方に向かった。
「え、あの、ちょっと」
犬飼君はどんどん階段を上り、人気のない4階までやってきた。友達二人を置いていく形になってしまった。次の英語の授業まであと5分もない。私も早く戻らないと。
「これ、暑いとは思うけど、着といて」
ようやく立ち止まってこちらを見たと思えば、私に自分が持っていたベージュのカーディガンを羽織らせた。この時期にカーディガンを着てる人なんてほとんどいない気がする。犬飼君、よくカーディガン持ってたな。ロッカーにずっと置いていたのかもしれない。女子の中にはクーラーが効きすぎてて寒いとかでカーディガンを羽織っていたりすることもあるけど、犬飼君もそのタイプなのか。クラスが違うからそこらへんはよくわからないけど、春頃このベージュのカーディガンをよく着ていた気がする。羽織らされたカーディガンに袖を通すと、やはり身長差もあるので袖が余る。そして、気が付いた。これ犬飼くんの匂いが凄くする。香水の匂いだろうか。よく着ているのだろう。匂いが染み付いていてなんだか落ち着かない。
「いや、良いよ、そんな」
慌てて脱ごうとする。こんなの着ていて次の時間の英語の小テストをまともに受けれる気がしない。
「お願いだから着てて」
犬飼君は私の腕を掴んで抑える。そして、前のボタンを一つずつ留め始めた。
「そんな格好でいられたらこっちの心臓がもたないから」
「え、あ、ごめん」
下着が透けていたのはそれは申し訳なく思う。とんでもないものを見せてしまった。けどそれにしたって
「暑い…」
「暑くても下着見られるよりマシでしょ?ほら、次の授業始まるから早く戻ろう」
犬飼君に促されて、二人で階段を降りる。気を使ってわざわざ持ってきてくれたのかな。それにあまり二人でいるところを見られたくないという私の気持ちを尊重して人気のない所まで移動してくれたのだろう。本当にそういうところが優しいし、気遣いがすごいと感心する。そりゃモテるはずだわ。
「それ、今日尚美ちゃんの部屋まで取りに行くからね」
後ろから不意に耳元で囁かれて、あわてて振り返る。
「へ、部屋?!」
「うん、おれが取りに行くから」
「いいよ!洗濯して明日返しに行くから!」
本部基地にある私の部屋には犬飼君はまだ入れたことはない。そして私もまだ入れる気はない。慌てて拒否する。
「いや、おれもちょっと話したいことあるし。人目につかないところといえばそっちの部屋でしょ?」
おれは学校で、目立つところで話しても良いんだけど?と目を細めて言ってくる。
「わかりました……」
付き合ってるのを隠しておきたい自分としては、あまり犬飼君と一緒にいるところを見られたくない。そうなると犬飼君の言う通り私の部屋で話すのがいいんだろう。
「ん、それじゃ、ちゃんとそれ着て残りの時間過ごしてね」
私の肩をポンと叩いた犬飼君はそのまま私を追い越して一人先に教室の方に行ってしまった。それを呆然としたまま見ていた私はチャイムの音が鳴って慌てて教室に入ることになる。人の家に来るときはアポイントメントは必須だけど、当日に言うのはどうかと思う。
犬飼君に借りたカーディガンを着て臨んだ英語の小テストはきっと過去最高にできなかったと思う。回収されていく小テストを目にしながら私はぼーっと考え事をしていた。シャーペンを持つ手は何度もカーディガンの裾で隠れてしまって、どうしてもその存在を頭から追い出すことはできなかったし、テスト問題に悩んで左手で頬杖をつくと、犬飼君の匂いがして冷静になれなかった。石鹸の匂いのような、さわやかだけど少し甘くて落ち着く匂い。その匂いがこんなに近くでする。体育の後ということもあり、教室の冷房はガンガンについていて、カーディガンを着た状態でも快適ではあったが、頭の中はぐるぐる先ほどの事でいっぱいになっていて、顔に熱が篭っていたと思う。両手をほっぺにやると少しほてっている気がした。これはカーディガンを着ている暑さによるものではなく、カーディガンから感じる犬飼君の存在のせいだ。そして、これを取りに犬飼君が今日部屋に来るらしい。話したいことがあるとも言っていた。話したいことに身に覚えもないが、なんなのだろう。怒られるのかもしれない。昨日基地内で顔を合わせたはずなんだけどな。
「ねぇ、そのカーディガンどうしたの?」
気が付けば授業は終わっていたらしい。休憩時間になり、周りがざわついていた。友達二人が私の席までやってきていた。考え込みすぎて周りが見えていなかった。
「もしかして犬飼君の?」
先程私が犬飼君に引っ張られていったのを見ていた友達はそう判断したようだ。そりゃそうだろう。
「え、どういう関係?付き合ってる?」
にやにや伺うように聞いてくる。高校生は人の恋バナが大好物だ。
「たまたま貸してくれたんだよ」
付き合っているのかという質問には触れずに話す。誰が聞いているかわからないし、犬飼君を好きな子にはいろんなタイプの子がいる、やっかまれたくないのだ。彼は八方美人どころか、全方面に好かれる男である。犬飼君を嫌いと言っている人間なんて雅人君くらいだろう。
「やっぱりボーダー隊員同士は仲良いんだね」
「ん〜どうだろ」
あははと適当に笑ってごまかす。今日は残すところホームルームだけで、担任よ早く来いと念じる。いろいろ聞かれたらごまかしきれなくなる。しかし犬飼君はいつ私の部屋に来るつもりなんだろう。私は今夜防衛任務が入っている。それはきっと知っているはずだから、それまでに来るつもりなのだろうか。とりあえずホームルームが終わったらダッシュで基地にある自室に戻って掃除をしなければ。朝バタバタしてたから洗濯物も朝食べたものも散らばっていたはず。女子としてあるまじき姿を見せるわけにはいかない。犬飼君はお姉さんが2人いる。女性に夢を見ているタイプではなく、むしろ女性には厳しいはずだ。ただでさえ美人なお姉さんたちを見慣れているのだから、だらしない姿を見せてがっかりさせたり、嫌われたりしたくはなかった。私にも見栄というものはある。友達二人とたわいもない話していると、スカートのポケットに入れていた携帯が震えて、何か受信したようだ。断りを入れて、携帯を見ると、犬飼君から連絡が来ていた。
――ホームルーム終わったら一緒に帰ろう――
死刑宣告だった。まさか掃除する時間もないとは。あわてて返信をする
――無理ですーー
犬飼君のカーディガンを着て、隣で歩いてみろ。私の着ているものが犬飼君のものではないかと考える人もいるだろう。男物のカーディガンを暑い中着ているなんて気が狂っていると思われるだろうし、「そんなに犬飼君の服を着ていてうれしいの?」「匂わせ?」「何のアピール?」とか女の子たちに影で言われてもつらい。高校生活は平穏に過ごしたいのだ。犬飼君が彼氏だと知られたら平穏な生活なんて無理に決まっている。
――それは残念。じゃあ、17時に部屋行くから――
あっさり諦めの連絡が来て、安心する。よかった折れてくれた。時計をちらりと確認する。今が15時20分。ホームルームが終わって、ダッシュで帰って、30分くらいは猶予があるのか。
そう考えたタイミングで担任が教室に入ってきた。どうか今日はホームルーム早く終わりますように。
ホームルームが終わってようやく帰れると、慌てて通学かばんや体操服の入った服をつかんで、友達に声をかけて教室を出ようとしたときに、クラスメイトの女の子に声を掛けられた。
「あの、ごめん宮木さん、ちょっといい?」
クラスでも1-2位を争う可愛さの子で、私とはそんなに普段話すような関係ではない。何だろうと思って足を止める。目がぱっちりとしていて、髪の毛は私にはうらやましいくらいのストレート。つやつやでいつもきれいにしていて尊敬するレベルだ。唇も色つきリップを塗っているのだろうか、ぷるぷるで同性の私から見てもぐっとくる可愛さだ。
「うん、どうしたの?」
ひょっとして今週が掃除当番だったのだろうか。掃除もせずに帰ろうとする不届き者を注意しに来たのかもしれない。
「えっと、それ、ひょっとして」
女の子は伺うように私を指さしてきた。私というより、これは着ている服だろうか。ピンときた。この子確か、犬飼君の事好きって噂があった気がする。けど、あえて察しの悪いフリをして、自分からは言わない。相手が言うまで答えてはいけない。沈黙は金だ。
「違ってたらごめん、宮木さんが着てるのって犬飼の?」
しかし聞かれたら聞かれたで返答に困る。彼女の顔には「まさか付き合ってるわけないよね?」と書いてあるようだ。確かに自分より明らかに可愛くない私が犬飼君と付き合っているとなったら面白くないだろう。
「うん、そうなんだけど…」
「おい、ちょっといいか」
女の子と二人、入り口近くで話していたので、邪魔をしていたようだ。声を掛けられてあわてて端に寄るがその声が良く聞くものだと気づいて声をかける。
「荒船君、どうしたの?」
「宮木、会長もう帰ったか?」
隣のクラスでボーダーに所属する荒船君だった。聞かれて、教室の中を会長がいないかぐるっと見渡す。
「う〜んいないね、もう帰っちゃったかも」
そういえば今日夜間の防衛任務に弓場隊も入っていたかもしれない。
「まじか、教科書借りてたんだけどよ」
荒船君の手元には国語の教科書と資料集が。みんなどれだけ教科書を忘れるんだ。
「俺、明日防衛任務で学校休みなんだよ」
頭を掻きながらどうすっかなと言っているのを聞いて、ふと思いつく
「それなら私が返しておくよ」
私は今夜防衛任務だから終わったら少し仮眠を取ってから学校に行く予定だし、明日の国語は3限なので十分間に合うだろう。
「それなら任せるわ、わりいな」
2冊荒船君から預かって、無くさないように廊下の自分のロッカーに置きに行く。そういえばまだ彼女との会話が途中だった。どうしようかとちらっと表情を窺うと、何とも言えない表情で私と荒船君を見ていた。私に犬飼君の事をもう少し聞きたいが、荒船君がいたら聞くに聞けないのだろう。
「宮木お前、今夜防衛任務だろ?さっさと基地行けよ」
どうやら私たちのやり取りを少し見ただけでだいたいの状況を察してくれたようだ。流石荒船君。
「あ、そうなの?引き止めちゃってごめん」
女の子も退いてくれた。今日のところはこれで許してもらえるようだ。
「ううん、大丈夫だよ。ごめんそろそろいくね」
荒船君のナイスアシストで教室を後にすることに成功した。あの子やっぱり犬飼君の事好きなんだろうな。私みたいな子が犬飼君のカーディガン着てたら内心面白くないんだろうな。ちくりと胸が痛んだが、気づかないふりをして、時計をちらりと見ると15時45分を過ぎたところだ。やばい掃除する時間がない。階段を急いで降りて、下駄箱に行くと何故かまだ隣に荒船君がいて一緒に歩いている。まさか一緒に本部基地に行くつもりだろうか?
「宮木、それ犬飼のやつか?」
まさかのドストレートに聞かれて、息が詰まりそうになる。気を使って誰も近くにいない時に聞いてくれるのが荒船君らしいが。
「え、なんでそう思うの?」
「いや、どう見てもそうだろ」
「そうなの?」
そんなにわかるもんなのだろうか。それとも荒船君だからわかるのだろうか。やっぱりこれ脱いだ方がいいのかもしれない。かばんを前に持って歩けば透けているのもわからないだろう。だけど、もし脱いで歩いているのを犬飼君が見たら気を悪くするかもしれない。それどころか説教されるかもしれない。このまま着て帰ることに決める。
「じゃ、俺こっちだから」
「うん。ありがとじゃあね」
校門で荒船君と別れる。方角的に荒船君は三門市立高に行くんではないだろうか。穂刈くんと倫ちゃんと合流するのかな?半崎くんもあっちだし。荒船君はきっと面倒見のいい隊長なんだろう。うちの隊長はどちらかというと放任主義だ。それはランク戦が物語っている。とにもかくにも助かった。今度荒船君にはお礼をしよう。そう思いながら私は本部基地までの道を長袖のカーディガンを着て急ぐのだった。
部屋に帰ると、汗だくで、シャワーを浴びたい気持ちだった。けど、掃除もしなければならないし、もう犬飼君が来る時間まで一時間もない。とりあえず犬飼君のカーディガンを脱いで、片づけを始めることにした。案の定朝脱いだままのパジャマはソファに置いたままだったし、使った食器は流しに放置していた。食器を洗って、カゴに立てかけて、着ていたパジャマを洗濯機に放り込んだ。大慌てで掃除機をかける。部屋のクーラーが効いてきて、体も涼しくなってきたところで、やはり自分の汗臭さが気になった。
「シャワーやっぱり浴びようかな」
今日犬飼君のあんないい匂いを嗅いでしまっては自分の匂いがすごく気になってしまう。どうしようかと迷っていると、机に置いていた携帯が震えた。もしやと思って見てみるとやはり犬飼君で、基地に入ってもうすぐ着くという連絡だった。シャワーを浴びている時間はなさそうだ。それならせめて服は着替えておこうと慌ててクローゼットに向かう。制服を脱いで、ないよりマシだろうと思って汗ふきシートで体を拭いて、私服に着替える。制服のスカートをハンガーにつるして、ワイシャツは洗濯機に放り込んだ。犬飼君が帰ったら洗濯機を回そう。だいたいできることは全部できたかな、と部屋を見回す。そして、犬飼君に借りたカーディガンが目に入った。それをそっと持つ。
「……」
犬飼君が来たら返しちゃうから、そう思ったらもう一回犬飼君の匂いをかぎたくなった。ほんと今日の私はどうかしている。カーディガンをぎゅっと抱きしめるとまだしっかり犬飼君の匂いがして、それを深く吸い込む。爽やかで少し甘くて、落ち着く匂い。
「…私何してるんだろ」
カーディガンに向かってぽつりと言う。こんなことしているのがばれたら犬飼君になんて言われるだろうか。ピンポーンとインターフォンがなった。あわてて玄関まで行ってのぞき穴を見ると犬飼君で、鍵を開けて招きいれる。
「いらっしゃい、早かったね」
「お邪魔します。学校からそのまま来たからね」
制服姿のままだからそうなのだろう。そんなに急がなくてもいいのに。
「あれ、カーディガン持ってきてくれたの?」
言われて気づく。私、持ったまま玄関出ちゃった。さっきまでしていたことがばれるわけがないとはわかっているのに、何となく恥ずかしくてあわてて答える。
「わざわざ取りに来てもらうの、悪いと思って、ほんとありがと」
「いいえ〜、どういたしまして」
靴を脱いで部屋に入る。きちんと靴をそろえる当たり育ちの良さが感じられる。お母さんやお姉さんにしっかりしつけられてきたのだろう。
「これ、手ぶらじゃあれだから途中で買ってきた」
右手に持っていたビニール袋を渡される。中身を見るとコンビニスイーツが入っていた。
「ありがとう」
手土産まで用意するとは、ほんと非の打ちどころがない。流石としか言えない。
そして、手土産までもらったら玄関先で借りてたものを返して、じゃあさよならが出来なくなった。きちんとおもてなししなければ。キッチンのある廊下を通り過ぎて、ワンルームの部屋の扉を開けて、犬飼君に入るように促す。
「どうぞ、ソファにでも座って待っていて」
「うん、そうさせてもらうね」
私はお茶を用意することにする。暑いし、麦茶でいいかと冷蔵庫を開けてコップに麦茶を入れる。犬飼君の待っている部屋に入ると、犬飼君はソファに座って周りを見ていた。
「ありがと」
お茶をソファの前のテーブルに置くと、犬飼君がこちらをじっと見ているのがわかった。
「何?」
「いや、着替えたんだなと思って」
「そりゃ、透けてるって言われていつまでも着てないよ、さすがに」
「そりゃそうだ」
けらけら笑ってお茶に口を付ける。
「学校で見たときはびっくりしたよ」
「ご、ごめん。以後気を付けます」
「うん、そうしてくれるとうれしい」
「で、私に言いたい事と言うのは…」
もしや今ので話終わったのかな。そうであってほしいと、ちらりと様子を窺う。
「ああ、ちょっと尚美ちゃんにお願い事聞いてほしくて」
「お願い事?」
小首を傾げて言う犬飼君に嫌な予感が走る。こういう時はろくなことがないと私の勘が告げている。聞くのが怖かったが、今日は貸しが一つあるので、聞くだけ聞いてみることにする。
「おれのこと、下の名前で呼んでほしいなって」
「へっ…」
想像していなかったことだったので思わず変な声が出た。確かに言われてみればずっと「犬飼君」って呼んでいるかもしれない。
「おれは付き合ってから尚美ちゃんって下の名前で呼んでるじゃん?だから、ね?」
隣に座っている私の顔を覗き込むようにしてくる。少しあざとい。けどそれが似合っていて、憎らしいくらいかっこいい。
「そのうちね…」
想像してみて欲しい。学校で犬飼君を呼ぶときに、たとえば「澄晴君、今日ボーダー行く?」とか言うんだよ。聞いた女子はこいつ何調子乗ってんだよってなるよ、間違いない。わざわざ付き合いを隠している意味がなくなる。
「そんなこと言ってたらいつ呼んでくれるかわかんないじゃん。今日今から、ね?」
右手をぎゅっと握られた。
「いや、だけど、人前で呼ぶのは」
「うーん、じゃあまずは二人きりの時に呼ぶってのは?」
それなら何とかいけるかも。なんか改めて言うのは照れるけど。人前では変わらず犬飼君って呼ぶのであれば大丈夫な気がする。
「わかった、えっと、澄晴…くん」
私の部屋で二人っきりで、下の名前を呼んで、急に恋人らしくなってきた気がして、うつむいて赤面してしまう。
「うん、いいね」
ちらっと犬飼君の顔をみるとすごくいい笑顔だった。そんな風に笑ってくれるのなら頑張って呼んでみようかなんてらしくもないことを思ってしまう。
「もうひと頑張りしてみない?」
「え?」
「もう少し特別感ある感じで呼んでほしい」
またハードルが上がった。特別感とは。今自分で頑張ってみようって思っていた気持ちがすでに折れそうだった。
「えっと、つまり…すみくんとか?」
「それ、王子と被るからやだな」
あと姉ちゃんとも、と犬飼君が嫌そうな顔をする。そうであればこういうことだろうか。
「はるくん?」
「うん、すごくいいね」
またちらりと表情を窺うとこちらをじっと見つめていた。目があってどきりとすると、私の右手を握っていた左手が私の顎に添えられた。
それからはスローモーションのように見えた。
ゆっくり犬飼君が顔を近づけてきたと思ったら、顔を傾けて、目を瞑り、私の唇に犬飼君の唇がふれた。
キス、されていた。
「いっ、犬飼君!?」
「あれ?呼び方戻ってるよ」
くすりと笑って、至近距離で見つめられる。息がかかりそうなほどの距離だ。
ぱくぱくと口が動くだけで声にならない。それほどの衝撃だった。
「ほら、尚美ちゃんおれの名前呼んで?」
そういいながらもまた顔を寄せて、キスをしてきた。
キスをしていたら、名前なんて呼べないじゃない。
novel top/
top