思い知ったが百年目

 脈があるかないかで言えば、『あり寄り』だと思っていた。
 彼女と仲の良い自信はあったし、少なくとも他の男たちよりも幾分か深い関係であると自負していた。そこに恋心があるかどうかは置いておくとして、憎からず思われているとなんの根拠もなく信じていた。

 それらがただの自惚れで驕りにすぎないと気がついたのは、連休明けの火曜日の午後のことであった。

 休み明けはどうも気が乗らないものである。そのせいか、彼女は朝から集中力を欠いているように見えた。
 彼女と膝丸は揃って委員会に出席した後、教室への道のりを並んで歩いていた。教室に引っこんで昼食を食べることに夢中な同級生たちのおかげで、昼休みだと言うのに廊下はがらんとしている。半日の間、どこかずっと上の空であった彼女を思い遣りながら、隣を独占しても許される関係と事情に感謝して歩を進める。静かなふたりきりの渡り廊下では、彼女の呼吸や足音が余計にはっきりと感じられた。
 特別人気ひとけのない階段の踊り場に差し掛かったところで、彼女は唐突に足を止めた。隣を並んで歩いていたはずの気配がすとんと抜け落ちたことに驚いて思わず振り返る。彼女はなんとも言えない奇妙な表情をして膝丸を見上げた。

「これから変なこと聞くけど、引かないでね、膝丸くん」
「どうしたのだ、改まって……」

 その、やけに躊躇いがちで意味ありげな物言いに、膝丸の予感がぞわりとざわめいた。

 これは、もしかしたら。『ワンチャンある』というやつなのではないか。級友がよく口にするいまいちピンとこない若者ことばの意味が脳裏を駆け抜けて行った。これは完全に『そういう』空気だ。恋愛ドラマの常套手段に似ている。事実は小説よりも奇なりの場面に遭遇するのだと思うと緊張した。心臓がどくりと大きく拍動して、リミッターを外したように急速に心拍数が上がる。期待と時期尚早な歓喜に高揚する気分を必死に封じ込めて、膝丸は素知らぬ顔で続きを促した。
 少女はしばらく迷って視線をうろつかせていたが、やがて意を決したように口を開く。上擦った声だった。

「ひ……膝丸くんのお兄さんって、彼女とか好きな人とか、いるの?」
「…………兄者に?」

 突然ことばを忘れたように頭が真っ白になって、間抜けにも鸚鵡返しに問い返していた。

 状況が状況で、これがもし巷で話題のラブコメならば告白のひとつやふたつ起きてもおかしくないと淡く期待していただけに、その衝撃は重い絶望となって膝丸に襲いかかった。
 彼女越しに見える踊り場の全身鏡の自分がこちらを見ている。はっと我に返った。少し頭が冷えたと同時に、己の浅はかで思い上がりも甚だしい勘違いを自覚してかっと耳が熱くなった。全速力で逃げたがる足を叱咤して、スニーカーの中で必死に地面にしがみつく。彼女に見えない位置で拳をぐっと握りこんで、なんとか膝丸は声を絞り出した。

「い、いや……俺はそのような話は聞いたことはないが」
「ほんと!?」

 膝丸の想い人は彼の知らない顔でほのかに頬を染めている。いつになく初々しく少女じみた様子の彼女を見ていると胸がざわついて仕方ない。
 衝撃の余波と気まずさで、膝丸はうまく表情を繕えている自信がなかった。頬が引き攣って視界がぼやける。


 自分はいったい何にこんなにも衝撃を受けているのか。

 無論、恋い慕う相手に想う人がいたという事実は膝丸に打撃を与えるには十分すぎる弾丸である。けれどそれ以上に、膝丸は初めて自覚した自分の思いの丈に戦いていた。
 そもそも、恋心については自覚があったはずなのだ。ほかの男に譲りたくないと思ってしまうくらいには彼女に入れ込んでいることを、膝丸自身認めている。けれどそれが兄への忠義を押しのけるほど肥大していたなど、今の今まで想像すらしていないことであった。
 膝丸にとって「兄」という存在は、ほかのなにかと比べるまでもなく最も大きな存在であるはずだった。兄がカラスは白いと言えばあの鳥は白いに間違いないし、兄が砂糖は辛いと言えば辛いのである。これは酷く極端な話だが、物心ついた時から一心に貫いてきた兄への忠義は確固たるものであり、なによりも自分自身がそれに誇りを持っていた。とどのつまり、平たくいえば膝丸はブラコンである。
 たとえば、自分のなかで兄に対する忠義と欲望を天秤にかけたとする。当然それは忠義に傾くべきで、その真っ直ぐな在り方こそが膝丸という男の真髄であった。しかしどうだ。今、天秤は恋心の優勢を示している。理性で推し量れない激情というものは、なかなかどうして厄介なものらしい。
 自分が兄ともあろう相手に嫉妬の念を抱くなど、なんと分不相応なことか。
 兄を思う女性の心を奪うことなど、膝丸には到底計画すらできそうもないことであった。

 膝丸の知らない顔をした彼女は、けれど、どの瞬間よりもかわいらしくいじらしい。
 この仕打ちはきっと、酷く慢心して救いようのない思い上がりにあぐらをかいていた自分への当然の罰なのだ。告白の前に先手を打たれたのではなく、こちらが出遅れたというだけ。運命なるものに遅れをとっているようでは、兄を凌駕することなどできるわけがない。まして二人の仲を邪魔する悪者になど、折れてもなりたくはなかった。
 もうこの恋はどこかへ捨ててしまおう。膝丸は心の中で自嘲して、絶望の縁に蹲った心中とは裏腹に平気な顔をして彼女に声をかける。

「協力させてくれ。俺にできることならなんでも手伝おう」
「え……手伝うって…………」
「無論、君と兄者との仲を進展させる手伝いだ」

 そう言った声が自分のものではないようで、どこか気味が悪かった。やけに俯瞰的な立場に立った自分が、しらじらしいと罵倒する。
 仮に彼女の想い人が兄でなくても、同じことを言っただろうと思う。膝丸は嘘をつくことができるほど性悪な男ではなかった。誠実と愚直が服を着て歩いているようなやつだと揶揄される性格である。そしてそれ以上に、今ここで余計なことを言って彼女の笑顔を曇らせたくはないと思ってしまった。この気持ちは兄に関係なく己の心に確かに持っているものだ。

 だから膝丸は、淡い恋心を斬り殺すほかなかった。
 深く切り裂かれた心がどくどくと際限なく血を流し、痛覚などないはずのそれが痛みに悲鳴をあげている。

 その日、膝丸は失恋したのであった。