情愛にわずかに満たされど
彼女への想いを捨てようと決意したものの、ただでさえままならない心をそう簡単に切り捨てられるはずもなく、膝丸は一晩中悩みとおすことになった。結局一睡もできずに朝を迎え、彼は目の下に隈をたずさえて家を出る。
日頃、今どきの高校生にしては珍しいほど規則正しい生活を送っているせいで、たった一晩の徹夜でも目に見えて調子を崩してしまう。大雑把な性格のわりに察しのいい兄は明らかに通常運転ではない弟に気づいているようだったから、膝丸は何か言われる前にそそくさと学校へ向かった。
「おはよう、膝丸くん」
「あぁ、おはよう。今日も早いな」
「膝丸くんもでしょ」
膝丸の苦悩など知る由もない彼女は、持ち前の明るさを取り戻していた。にこりと笑って朝の挨拶をする彼女に、膝丸はつとめて普段通りを装いながら答えた。
膝丸の登校時間は早いほうだが、彼女はいつも膝丸より先に教室に着いている。他のクラスメイトが教室に滑り込んでくる三十分後まで、がらんとした教室には大抵ふたりきりだった。
二列離れた席で一限目の授業の準備をしている音を聞きながら、膝丸はため息を吐きたい衝動を押し殺して代わりに目頭をぐっと押さえた。昨日の今頃は、自分は何を考えていただろうか。ありきたりといえばありきたりな恋をしていた昨日までよりも、その恋を殺した今日のほうが彼女のことを考えている。
そして同時に、彼女にはこんな痛みを味わってほしくないと思った。兄に好い人がいるのかどうかは知らないが、彼女の想いが叶ってくれたらと誰ともなしに願う。そのためなら、自分の心など取るに足らないもののように感じた。
不意に右側から椅子を引く音が聞こえて、膝丸は反射的に顔を上げる。沈黙の隙間をいい加減に埋めていた作業音が途切れて、ごく小さな足音だけがその役割を引き継いだ。こちらに歩いてくるその足取りに視線が釘付けになって、無意識に体が固くなる。膝丸の机の横に立った彼女は、歯切れ悪く彼に話しかけた。
「昨日のこと、だけどさ」
世間話を始めるには少々重苦しい口調で、彼女はまさに膝丸が考えていたことを話題に上げた。正直あまり触れたくない話だったから、膝丸は返答の仕方に迷って口を噤んだ。
協力すると言い出したのは他でもない自分なのだから、その約束を違えるわけには行かない。兄の恋愛事情をさっぱり知らないことに謝罪のひとつでもするべきかと開きかけたその口は、彼女の言葉に遮られて息を吐くだけにとどまった。
「あんまり気にしないでね!その、なんて言うか……困らせたくないし」
「う、うむ……」
言いづらそうにしながらも口を挟ませない勢いをもってそう締めくくられた言葉に、間の抜けた相槌だけが零れる。何を言えばいいのかわからず押し黙ると、今度は完全な沈黙が二人を縛る。
抜け出し方を教えてくれと思いながら、空白を埋めるように視線を彷徨わせるしかなかった。
ガラリと扉が開く音がして、石化が解けたように彼女が一歩後ずさる。慌てて時計に目をやると、確かにクラスメイトたちが登校し始める時間に近づいていた。おはよう、と呑気に挨拶をした何も知らないクラスメイトに、ふたりでそれぞれに挨拶を返した。
*
「買い出し行ったら、二人ともそのまま直帰していいよ」
「うーん、今日はもう間に合わなさそうだよね」
クラスメイトが頷きあって、膝丸に茶封筒とメモを手渡した。二人、つまり膝丸と葵に与えられた任務は、足りなくなった材料の買い出しだった。来たる文化祭の当日は二日後に迫っていて、ほとんどの生徒が下校時間ぎりぎりまで自主的に居残りをしている。担任の教員にそれとなく時間が迫っていることを示唆されて、じゃあそろそろ切り上げようかという流れになった。
文化祭実行委員という役職は、実質こういう時の使いっ走りと同義だ。
帰路につくクラスメイトとは別れて二人でホームセンターへ向かう。かなり便利のいいところにあるから、文化祭の買い出しで、他クラスや他校の生徒がよく訪れる高校生御用達の店だった。
もういい時間だから早めに終わらせようと言い合って、売り場を並んで歩く。メモに記されたものを膝丸が持った買い物かごに入れていくと、あっという間にそれなりの重量のある荷物へと変貌した。
「結構重いね。私の持ってきたかばんに入るかな」
「残りは俺が引き受けよう。力仕事なら任せておけ」
「じゃあお願いするね。ありがとう」
彼女が持っていた手さげ袋もそれなりに大きく、少なく見積っても半分以上は持ち帰れてしまいそうだ。膝丸はさっさと重量のあるものばかりを自分の袋に入れて、彼女がその気遣いに気づいて口を挟む前に肩にかけた。
それぞれに大きさの違う買い物袋を携えて店の外に出る。もうすっかり暗くなってしまったから送らせてくれと言おうとした膝丸は、ざあざあと降り頻る雨に何も言えなくなった。
しかも、こんな日に限って膝丸は傘を置いてきてしまっている。
「うわ、土砂降りだね……折り畳み傘ならあるけど、膝丸くん、傘ある?」
「い、いや……だが、俺一人が濡れて帰るだけなら構わんだろう」
幸い、駅までそう遠くはない。走って向かえば大丈夫だろうと考えたが、彼女はとんでもないと言って頷かなかった。
「ダメだよ!そうだ、ホームセンターだし、傘の一本くらい置いてあるんじゃない?私、お店の人に聞いてくるね」
そう畳みかけるように告げて彼女は膝丸に背を向ける。静止する間もなく店の中に駆けて行く背中を見ていたが、すぐに我に返り慌てて彼女を追いかけた。
「売り切れなんて……ツイてないなぁ。どうしよう」
「だから、俺なら平気だと言っているではないか」
「濡れて帰るのは絶対ダメだよ。風邪ひいちゃうじゃん」
彼女は頑として譲らない。
互いの言い分が膠着状態に陥って解決策を見いだせないでいるうちに、雨音は心做しか激しさを増していく。
どうしたものかと黙り込むこと須臾にして、彼女が「あ、」と声を上げた。
「そうだ、私の傘を一緒に使えばいいんじゃない?折り畳みだから小さいけど、濡れるよりは全然マシだよ」
「それはだめだ!」
力強く否定したその剣幕に、彼女は驚いたように目を丸くした。
小さい傘を高校生が二人で使おうとすれば、その距離感は実践するまでもなく想像にたやすい。昨日までならいざ知らず、彼女の気持ちを知った今となっては膝丸にその申し出を快諾することはできなかった。
きっぱり断った膝丸に彼女は面食らった様子だったが、その表情は次第に拗ねたようなそれに変わっていく。
「膝丸くんが入らないなら、私も一緒に濡れて帰るよ」
「なぜそうなるんだ。それこそ風邪をひくだろう」
「だったら一緒に入ればいいでしょ!ほら、行こ」
問答無用で傘を開くと、膝丸のブレザーの袖を掴んで引っ張った。その仕草に、腹の奥からなにかが込み上げてくる。
実際のところ、その手を振りほどくのは赤子の手をひねるように簡単なことだ。膝丸は、それに気づきながら手を振り払えない自分に嫌気がさした。