地上での事件
誰かが整備している様子もない、鉄骨のみで組まれた階段のような物。しかし階段と言うには些か不便である、手摺すら無いその“段”の連続。それをしっかりとした足取りで下る男が一人。フードを目深に被り、背に大きなリュックを背負って、ただひたすら暗い地下層へと足を進めている。暗くて分かり難くはあるが、片方の手に一輪の花が握られている。洒落た花などでは決してなく、花弁すらも緑色の、花束であれば脇役として添えられるような花。それを大して大切そうに扱うでもなく、しかし手が滑って落とす事も無さそうな風にフラフラと、段を下る毎に振っている。
もうすぐ段が終わる頃、下ばかり見つめていたその男がようやく前を向いた。暗闇に光る二つの金色、彼の目からは不気味ささえ感じられる。目を向けた先に何がある訳でもないが、男は前を真っ直ぐ見つめる。彼の目に何が映っているのか、知る人は誰もいない。
段が終わり、ようやっと傾斜の無い地面に足をつけた男はそこで一旦足を止めた。目が慣れていても見えるかどうか判断しかねるこのキムラスカの最下層。しかし男は、まるで周りが見えているかのようにぐるりと辺りを見回した。そして彼はいつもの溜息を吐くわけでもなく、面倒臭そうな表情をするわけでもなく、目的地へと再び足を踏み出す。
最下層民の者は皆表社会から追いやられた側の人間だ。自分達を追いやった表社会の人間、つまり“上”から来る者には多大なる先入観と警戒心がある。その為こちらに危害を加える気が無くとも、彼らにとっては段を下ってきたという事だけで敵と認識されてしまう事が多い。エドガーはそれを踏まえた上で静かに、また少しだけ急ぎ足で、暗くて舗装もされていない道を進む。
少し歩いた先には開けた場所があり、彼はそこでもう一度足を止めた。人影のようなモノがちらほらと見当たるが、キムラスカの明るい街並みからは想像もつかないじっとりとした雰囲気だ。その広場のような様相をしている所の真ん中をエドガーはジッと見つめていた。
不意に、彼は手に持っていた花を握りなおして、いままで見つめていた場所へ向かう。彼は数歩歩くだけで辿り着いたその場所に、手にある花を投げ置いた。カサリ、と小さな音をたてて落ちた花の上に、今度は背負っていたリュックを置く。勿論下敷きとなった先程の花はグシャリと潰れたが、彼はそれに構う事もなくすぐさまその場を離れた。
彼が離れた後、リュックの周りにはちょっとした人だかりができる。最下層民独特のコミュニティが出来上がっているそこは、意外にもエドガーという一個人を強く拒絶している訳ではなかった。何を隠そう、短い間ではあったが彼もこの最下層で過ごしていた事があるのだ。昔からここで暮らしている者からすれば、エドガーとは既知の仲である。そんな彼が置いていく物は、いつもここの住民に必要な物資だ。
言葉を交わす事は無くなったが、確かにそこにはエドガー・アルタスと最下層民との繋がりがあった。
◆ ◆ ◆
「ふぅ……」
暗い最下層から地上へ上がってきたエドガーは最初に小さく息を吐いた。いくら最下層で暮らしていた事があったとしても、彼は今地上の暮らしが日常だ。その為地下の空気の澱みは少々慣れない物がある。誰だって慣れたくもない事だが、彼自身慣れてしまっていた時期があったのも事実だ。
彼としては、今日はこのままシャワーでも浴びて一日何もせずに終えようとしていた。毎年この日はいつもそうする事にしているのだ。ルークの言っていた、エドガーが毎年決まって休む日の過ごし方は例年通りであった。
今この瞬間までは。
—— バサバサッ ——
エドガーからかなり近くから聞こえたであろう鳥の羽ばたく音。それを胡乱気な目で仰ぎ見た彼は、一瞬眉を顰める。そして一度溜息をついて、とりあえずシャワーだけは浴びよう、と思い今までよりも急ぎ足で帰路に着いた。
『エドガー・アルタス殿 至急ファブレ邸に来られたし』
ファブレ家の伝書鳩がその足に括りつけて持ってきたであろう内容を、彼は寸分違わず予想して見せたのだった。
◆ ◆ ◆
屋敷全体がざわめき返す中、一人の男がやってくる。自分の心の中の宣言通り、まずは体を洗ってファブレ邸宅に向かったエドガー・アルタスその人だ。
「お待ちしておりました。旦那様のもとへご案内いたします」
落ち着かない屋敷といってもメイド達が仕事を怠る事は無く、すぐさま彼をファブレ家現当主であるクリムゾンの所へ導く。しかし、誰から見てもそのメイドは挙動不審であった。彼女に限らず、ファブレ家直属の武装集団、白光騎士団でさえもそわそわとしている。その様子を横目でとらえつつ、エドガーはつい吐きそうになった溜息を寸でで止めた。彼は伝書鳩が来た時から感じていた「面倒臭そう」という思いを改めて感じていた。
「失礼します」
応接室に通されたエドガーは自分の邪念をなるべく消し去り、顔を引き締めて扉を潜った。彼を出迎えたのはこの屋敷の主、クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレ。王族の証である焔のように赤い髪の毛、宝石のエメラルドと見紛う程の眼光を灯した緑色の瞳。“当主”という肩書きすらも霞んで見える威厳の持ち主である彼が、家の代表者が座る席に何の違和感も無く座っていた。そしてその傍らには白光騎士団一人と、意外にもガイがいる。
それからもう一人、今日はここに居るはずの無い人物。
榛色をした髪の毛を一つにまとめ、実際の歳より幾分老いた印象を抱かせる顎鬚。ルークの剣の師にして神託の盾主席総長でもある、ヴァン・グランツ謡将。彼はクリムゾンの右手にある席に、少し遺憾そうな面持ちで座っている。彼が何故ここにいるのか、少し気になる所であるエドガーだが、彼はその前に自分を呼んだ張本人に向き直った。
「こうして顔を合わせるのは久しいなエドガー君」
「はい、お久し振りにございますご当主」
エドガーはキムラスカ式の敬礼をしながらクリムゾンの言葉に答える。クリムゾンが片手を挙げた所で敬礼を解くのは暗黙の了解である。
彼に勧められるままに、エドガーは彼の左手の席、つまりヴァン謡将の正面に腰を落ち着かせた。その際エドガーはヴァンに向かって目礼をする。ヴァンはそれを見て、同じように目礼を返した。
「今日、他ならぬ君に来てもらったのには理由がある」
「最重要事項だという事は、鳩を頂いた時から存じ上げております」
その言葉にクリムゾンは、いとも簡単に「すまぬ」と謝罪の言葉を口にした。少なからず、彼の後ろに控えているガイや白光騎士団がたじろぐ程に。彼が他人に謝辞を述べる事はそれ程珍しい事なのだ。
「構いません、本日の私用は既に終えました」
「そうか。では早速本題に入らせて貰おう」
何の事を話しているのか、ガイ達が聞く間もなく(実際には聞く権利など無いのだが)話はエドガーの言う最重要事項に移る。
「本日、我が息子であり君の護衛対象であるルークが攫われた」
それを聞いたエドガーが瞬時に視線を鋭くした。それは決してルークの攫った何者かに対して怒りを覚えたからでも、今までの「面倒」という気持ちを戒めたからでも無い。
「……その事について、私をお咎めになるおつもりで?」
冷え冷えとした彼の目からは「そんなのお門違いだ」という声なき声がありありと伝わる。それに気付いたガイ達がまたもや、そして今回はヴァンまでが驚きを示した。
「違う」
その驚きを掻き消すかのようにクリムゾンはきっぱりと言い放つ。その言葉にエドガーは、ホッとする訳でもなく、静かに瞼を落として「失礼」と一言口にした。
「君が今日不在だという事は以前からこちらも了承していた。君の責任は何処にもない」
それを聞き、エドガーは瞼を開く。彼には、自分の事を真っ直ぐ見つめる一対のエメラルドグリーンが見えている。
「失礼しました、それでは私を呼んだ理由は捜索依頼でしょうか?」
エドガーは最終的な確認を前倒しに聞いた。クリムゾンとしては、まだ幾つかここまでに至った経過などを話す予定であったのだから肩透かしを食らった思いだ。しかしクリムゾンは思い直した。
クリムゾンのエドガーに対する評価は、これまでの不敬罪すれすれの言動とは裏腹にかなり高い。というよりも、高いからこそそれらを許していると言って過言ではない。クリムゾンにとってエドガーは、聡く、また命じられた任務にはそれに見合った報酬を渡せば必ずこなす傭兵。つまり、彼にとって経過情報などは必要なく、ただ任務のみを受け取るだけなのだ。
「そうだ、直ちにルークの捜索と不慮の事故とは言えルークを攫ったティア・グランツの任意同行を君に頼みたい」
「承りました」
『グランツ』と聞いた時、エドガーの片方の眉がピクリと動いたが、彼は何事も無かったかのように言われた任務を受諾した。それを分かっていたかのようにクリムゾンは言葉を続けた。
「犯人は、こちらにいるヴァン謡将の妹君だそうだ。ガイも犯人が謡将を『兄』と呼んだのを目撃したと言う」
それを聞いてエドガーは隠しもせず眉を寄せた。彼の脳内では「なら何故謡将を捕らえない」という疑問が巻き起こっている。それに答える者はおらず、またその疑問を口にするほどエドガーは野暮ではない。あえてここで答えるならば、偏にそれはヴァンの身分と話術のなせる業である、と記しておこう。
「後の事は君と謡将に一任する」
クリムゾンのその言葉を確認したエドガーは、改めて目の前のヴァン・グランツと向き合った。
「話すのは初めてですね。傭兵を生業としているエドガー・アルタスと申します」
「ローレライ教団の主席総長を勤めさせて頂いているヴァン・グランツ謡将だ」
この言葉の通り、この二人は初対面ではない。ヴァンは、エドガーがルークの護衛(という名のお守)を任される前からルークの剣を教えていたのだ。必然的に屋敷の中では割と顔を合わせている事になる。しかし、エドガーがルークの剣を邪魔する事をしていなかった為に会話と言う会話は今回が初めてとなる。
「さて、自己紹介もこの位にして……私から提案があるのだが」
ヴァンの言葉に、エドガーがスッと目を細めた。相手の内心に目を凝らすようなその視線に、ヴァンは人知れず冷汗が背中を伝う感覚に見舞われた。彼の目が、珍しい金色の目だという事もヴァンを少しでも恐れさせた要因であろう。しかし、エドガーがそんな視線を寄越したのは、その余韻を感じる事も無いような間だった。
「お聞き致します」
瞬時に聞く体勢に入ったエドガーを見て、ヴァンはほんの少しだけ彼に対する印象を改めた。『何を考えているか分からない男』から『油断ならない男』と。しかし、その思いの変化を微塵も感じさせないようにヴァンは再び口を開く。
「ルークが北の方角、つまりグランコクマ領へ行った事は間違いありません。私は海路から、貴殿は陸路から捜索するのは如何でしょうか?」
「……それが最善でしょう。すれ違いが起こらいよう細心の注意を払えば。流石の主席総長であらせられるだけはある」
その妹が主犯だという事に対する皮肉か、はたまた純粋に尊敬の念を示しているのか。この時点でのエドガーの態度からは分からない。それからエドガーは、視線を横に向けてクリムゾンを見た。
「ご当主、私は犯人であるティアという方の人相を知りません。使用人のガイをお借りしても宜しいでしょうか?」
急に名を呼ばれた当のガイは、目を見開いてエドガーの事を見やった。それには構わず、エドガーはクリムゾンを見つめたまま回答を待つ。クリムゾンは一度ガイを振り返った後、頷いて見せた。
「そうであった。こちらも彼女の顔を見たのがガイとペールしかおらんのでな、許可しよう」
「ありがとうございます」
名を呼ばれたガイは、使用人としての顔を前面に出して咄嗟に一礼した。正しい判断だ。
「ではこちらはガイの準備が出来次第捜索を開始いたします。旅券の発行をお願いしても?」
「今からでは簡易の旅券しか間に合わない。正規の旅券は謡将から手渡して貰うとしよう。宜しいですかな謡将?」
「分かりました、ではカイツールで待ち合わせと致しましょう」
淡々と続く会話の中で、エドガーの心は違う事を考えていた。彼は自分のの胸に現れた靄のような嫌な予感の根源をずっと探していた。その感覚が明らかになる事は、この場ではなされなかった。
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