石化前。こわ〜い上司ゼノに脅され無理やり関係を迫られる。不器用すぎるゼノ氏。割と王道な展開です。
二人は同い年で同期ですが、演出のために敬語を使います。職場(NASA)のにわか知識についてはご容赦ください。
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「ナマエ、それはやめた方がいい」
心臓を止めてしまうところだった。
彼の登場に、思わず心臓を止めてしまうところだった。それは無理でも、少なくとも呼吸は止まった。
「いや、僕個人としてはなかなか面白いことになりそうで、今後の展開を傍から眺めて見ていたいところだが・・・」
勤務時間の決められていないこの職場。それでも人の少ない時間帯を狙って、今このタイミングを選んだのに。それなのに、彼は当たり前のようにこの場に現れた。何故『彼』が現れたのか、私には少しも理解できない。
その彼は、堂々と部屋の扉を開けて、中にいる私と目を合わせた。
「ナマエ、同僚として一応忠告しておくよ。それはやめた方がいい」
石のように固まる私に構わず、彼は中に入って扉を閉め、何故か鍵までかけて近くのソファーに腰掛けた。まるでここが彼の休憩所かのように・・・手に持っていたペットボトルの水を口に含む。
「ぜ、ゼノ」
「なんだい?ああ、どうして僕がここにいるのか、と?」
「そうです・・・だってここは女子更衣室です、どうしてあなたがここに入ってきているのです」
「君の姿が見えたから」
いや、分からない。それでは彼がこの部屋に入る説明がつかない。何故『彼』が現れたのか私には少しも理解できない。私の姿が見えたから?部屋の外で、私が出てくるのを待っているつもりだったということ?それで、中の様子を察して扉を開けたとでも言うの?
そうだ、私は馬鹿だった。どうして扉に鍵をかけなかったのだろう。内側から鍵をかけて、扉の前に重い物を運んでまで、部屋の入口を厳重に塞いでおかなければならなかった。余裕をかましてこのザマだ。
私は『続き』を続けることができなかった。当たり前だ、人に見られながらやることではない。それだけでなく、手を引っこめることもできない。ただじっと、固まって彼のことを凝視するだけ。そうしていると、彼は水を飲みながらこちらに人差し指を向けた。
「落ちそうだ」
ハッとして下を見ると、その指摘の通り私が腕に抱えているファイルから書類が抜け落ちかけていた。慌てて下から手を添えて中に押し戻す。その時、ファイルと体の間に挟んでいた筒状の容器が真っ逆さまに床に落ちた。
あ。死にました。本当に心臓が止まりました。そんな感覚が確かにあるのに、何故か鼓動は大きな音を鳴らして騒ぎ立てている。
床に落ちたそれは、まるで吸い込まれるように彼の元へと転がっていく。その様子を眺めながら、私は力の入らない手で『友人の』ロッカーの扉を閉めた。
「君は、これをどこで手に入れたのだろうね」
彼は容器を手に取ると、テーブルの上にそれを置いた。
「そして・・・これを彼女の水筒の中に入れて、一体何をしようというのだろう」
殺そうとしていました。
心の中では正直に答えた。しかしそれどころではなかった。
彼にその現場を目撃されてしまった。そもそも私はこの『薬物』を持っている時点で、既にこの国の法律を犯していることになる。それを彼に知られてしまった。ああ、知られてしまった。彼の口を塞がなくては。
「報告しても?」
「ま、待ってください」
「待つ義理は無いな」
「なんでもする、ので・・・どうか、どうか誰にも言わないで」
「なんでもする?」
彼はソファーの上で長い脚を組み、その端正な顔に手を添えた。そして、自分の視線より上にあるはずの私の顔を、見下ろすように首を傾げた。
「さて、君に何ができる?」
何かを言おうとして開いた口は、少しして閉じられる。とっても簡単な問いかけだ、そんなものは。
ええ、何もできるわけがない。完璧な彼にこの私ができることなんてひとつもない。彼は誰の助けも必要としない。
些細なことも、どんなに困難な問題が発生しても、いつも自分だけで解決してしまう。その上信じられないほど仕事が早い。私はこれでも彼の補佐役という立場にあるはずなのに、彼の仕事がこちらにまわってくることは滅多にない。
少しの沈黙。彼は静かに私の答えを待っていた。それなら、それなら逆にかましてやる。
「な、なんでも」
たどたどしくなりながらも、そんな言葉を口にした。
「ほう、なんでも?」
「なんでも。あなたが、私に頼もうと思えることなら。なんでもできます」
「おお確かに、君の言う通りだ。僕は君が『できない』ことは頼まない。そんなものを頼んでも仕方がないからな」
あなたは私が『できる』ことも、頼んではくれないが。
「何か、私に・・・できることがあれば、あなたが言うことなら、私はなんでも聞きますから・・・」
「そうだな。僕は君に何をして欲しいと思うだろうか」
彼はそう言って考え始めた。
なんだろう、この地獄の時間は。心がじわじわと何かに侵食されているような、不快な気持ち。今すぐどこかへ逃げ出したい。どこでもいいから、安らかになれる場所へ。
彼は急に立ち上がった。
「ああ、ひとつある」
急に立ち上がったかと思えば、軽い足取りでこちらまで歩いてきた。警戒して思わず一歩足を引く。身長差のせいで今度は私が彼を見上げる番になった。
彼は一体どんな無理難題を提示してくるのだろう。普段から私の存在をいまいち認識してくれていないような、そんな立ち位置にいる私に何を頼もうと言うのだろう。不安から、腕に抱えるファイルが潰れた。
「左手を」
簡潔な言葉に困惑する。しかし、彼は返事を待たずに私の左手を掴んだ。ファイルからその手をはがし、私の顔の前に掲げて、指の間に指を入れてぎゅ、ぎゅと握り始める。
彼が一体何をしているのか、まるで分からない。なにこれ。無意識に距離をとろうとすると、彼は逃げるなと言わんばかりに反対の手を私の背中にすべらせた。そして、引き寄せる。
「あ、の」
彼に抱きしめられている。そう表現しても相違ない位置関係になった。何故か分からないが、彼に抱きしめられている。左手は握られたまま。いや・・・何故?どうして、いつまで経ってもこの手を離してくれないの。
彼は私の反応を確かめるように、じっとこちらを見つめてきた。瞳を通して脳味噌の奥まで覗かれるような、居心地の悪い視線に思わず即座に下を向く。彼がいつも首に巻いているチョーカーの、金属部分に写る私と目が合った。
「こっちを向いて」
彼は言う。
「何をしている?今しがた、君が自分で言っていたろう。僕の言うことならなんでも聞くと。ほら、こっちを向いて」
そんなことを言われたら、私はもうそうするしかない。ゆっくりと上を向いて彼の顔を視界に映す。いつもより圧迫感のある雰囲気で、とても目を合わせることなんてできなかった。目線だけ少し下の方に向けていると、彼はまた同じ言葉を繰り返した。
「こっちを向くんだ、ナマエ」
右、左に目を泳がせて、言われた通り少しずつ目線を上にあげていく。
彼の瞳はいつにも増して光がなかった。むしろ清々しいほどに暗く、ある意味澄んだ瞳で彼はこちらを見下ろして、静かに私の心を威圧する。目の下のクマがより一層深みを与えている。彼は自覚があるのかないのか、その顔のまま微笑みかけてきた。
「一つ、あるんだ。そういえば僕は、前から君に一つ頼みたいことがあったんだよ」
「な、なんですか。それは・・・こうしてわざわざ密着することと何か関係があるのですか」
「あると言えばあるが、ないと言っても正しいな」
どちらともない言葉。彼のような人がこんなにも曖昧なことを言うと、さらに不審感が増して仕方がない。
彼は私から一瞬たりとも目を外さないまま、左手に絡めていた手を離し、手首を掴んだ。そして今度は親指で手の平を撫でてくる。だからそれは、一体どんな意味があって、どんな意図があって、どんな目的があってそんなおかしな行動をとるの?
口には出さず、頭の中で疑問を投げかけていると、彼はふいに背を丸めて私の左手薬指にそっと唇を触れた。目を見開いてその様子を見ていると、彼は続けてこんなことを言う。
「君の、この指が欲しいんだ。・・・だから僕にくれないか?」
耳元で、囁くように。
私の左手の薬指に、
その角張った人差し指を絡めながら。