バレンタインのお話。スタン編。
+++
コンコンコンと、小さく鳴らした午前6時。寒い季節だ。一日の中でも特に冷たい空気が漂う早朝の廊下で、一人の男がタバコを咥えながらノックの返事を待っていた。
プリンセスの朝は早い。つまり俺の朝はもっと早い。今日は朝からやりたいことがあるとかなんとかで、この時間に迎えに来るように申し付けられたのだった。
「ハニー、生きてっかー?」
前回起こしに来た時に勝手に部屋に入ったのを咎められ、ナイトから召使いに降格されたあの日のことを思い出す。今の俺はしがない召使い。言いつけは守らなければと今回は大人しくドアの前で待機しているのだが、いつまで経っても返事が帰って来ない。これはもしや寝ているな。
煙を吐き出して、一考。ドアを開けるか開けまいか、これは悩みどころだ。そうやって腕を組んだところで、中からようやく気の抜けたような寝起き特有の声が聞こえてきた。
「いきてる〜……」
生きていると知れて嬉しいが、ぜんぜん活き活きしていない。
俺の声に反応してくれたので、どうやら意識はあったらしい。まだベッドで項垂れている様子が簡単に想像できるが……返事が来たからもういいか?そう思ってドアノブに手を伸ばすが、いくら捻っても開けない。内側から鍵をかけられている。
防犯対策がバッチリしていて安心だ。これでは召使いすら侵入することができない。ま、蹴破ったりしない限りな。さすがにそこまでする馬鹿ではない。
「開けろよ、起きてんだろ?」
「もうちょっと待って。れでぃには支度の時間が必要なの」
呂律が回っていない。いつもより早い時間だからだろうな、彼女は朝に強くない。それでも自力で起きてはいたようだから、そこは賞賛に値する。
支度なら召使いにさせりゃいいのに。そんなことを思いながらも壁に寄りかかって待っていたら、しばらくしてガチャと鍵の開く音がした。顔を上げて再びドアの前に立つが、何故か少ししか開かれず。拳ひとつ分の隙間から目を覗かせた眠そうな顔が俺を見上げた。
「合言葉は?」
笑顔で尋ねられた。髪を少し整える程度の支度かと思っていたが、思っていたより身綺麗な彼女。まあこいつはいつも綺麗だけど。服を着替えて万全な格好で姿を現した彼女は、まるで予想外の言葉を口にした。
合言葉?なんだそれは。そんなものを決めた覚えはない。前回の件で約束ごとでも交わしていただろうか。勝手に部屋に侵入した俺対策ということか?
「なに?それ」
「合言葉は合言葉だよ。ほら答えて」
何も聞いていない。これでは何も答えようがない。それなのに彼女はただニコニコと笑っていて、じっと答えを待っている。
彼女が欲しい言葉を予想しろと?とりあえずそれっぽいのを言っておけばいいか。悩むまでもなく思い浮かんだ言葉を告げる。
「んー、アイラブユー?」
「ちがーう」
あっという間にパタンと閉まる扉。ちょま。それはいくらなんでも容赦なさすぎ。
最初のノックより強めに、しかし借金の取立てよりかは優しめに心がけて手の平でバンバン扉を叩いた。
すぐにまたドアの小さな隙間からプリンセスが顔を覗かせる。かわいい顔しても無駄だ。睨みをきかせながら苦言を呈した。
「ひでぇじゃん、愛の告白無視すんな」
「ごめんごめん!思ったよりすごい勢いがついちゃって。私も、あいらぶゆーすたん」
んん、かわいい。ゆるす。しかし、やっぱりドアが開かれる様子はない。合言葉?アイラブユー以上にぴったりな言葉なんてそうそう無いぜ。……強いて言うならマリーミーか?緊急事態でもないのに、ドア越しにプロポーズなんてしたくねぇわ。
廊下の寒い空気に手を擦り合わせながら、大きなあくびをするナマエ。
「はは、すっげ眠そ。なんでわざわざこの時間にした?今日お互いフリーじゃん、もっと寝ときゃよかったのに」
「なんにも無い日だからこそだよ!早起きしたら、今日スタンと過ごせる時間がいっぱいになるでしょ?」
当たり前のようにそんなことを言う。
「え、なに急に。超かわいいこと言ってくれんじゃん。それなら尚更ここ開けろよ」
「だめ。開けるには合言葉が必要なの」
「だから、その合言葉ってのは何もんだ?」
「私が考えたの」
「無茶ぶり過ぎんよ、それはさすがに」
いたずら好きのプリンセスだ。俺ら二人の力の差じゃ、ちょっと扉を押せば簡単に開いてしまうだろうが……少しくらいなら付き合ってやるか。
「ナマエ」
「なに?」
「いや、合言葉」
「ええ?それただの名前じゃん」
「じゃあプリンセス」
「ちがう」
「キュート」
「ちがう!」
「ん〜あ〜エレガント」
「ゼノじゃないんだから」
パッと思いついた言葉を上げていくが、当然のように合致しない。そりゃ片っ端から言ってりゃいつかは当てられるだろうが、どれだけ時間がかかるだろうか。
俺はこの扉を蹴破ってでも、早くあんたを抱き締めて熱々のキスを交わしたいってのに。
「お手上げ。ヒントくれヒント」
「も〜しょうがないなあ」
早くも面倒くさくなった俺に、彼女はドアの隙間を広げて肩まで身を乗り出した。それはもう開いてんだろ。合言葉いるか?
「ヒントはもう言ってるよ。今日は朝から晩までスタンと一緒にいたい日なの」
またそんなことを。こういう類いのことは何度聞いても心にくる。こんなにストレートなことを言う彼女は少し珍しいから。
「特別な日ってことか?」
「うん」
「特別な日……」
誕生日ではない。二人の記念日はどれも暖かい季節だから、それも違う。そしたら何か一般的なイベントごとか。
イベントといえば……二ヶ月くらい前にクリスマスのちょっとしたパーティーをした。この世界では三回目の冬。普段よりも豪勢な料理で盛り上がれるくらいには余裕が出来た。
それが二ヶ月前か。……。
「……もしかして今日バレンタイン?」
「だいせいか〜い!!!」
「うおっ」
急にドアが開いて中に引き込まれた。片腕をぐいぐい引っ張られて体が全部中に入ると、パタンとドアが閉まる音。気づかないうちに抱き締められている。俺を見上げるかわいい彼女。
「合言葉は、ハッピーバレンタイン!」
彼女の口からその言葉が出てきた時、とんでもない罪悪感にさいなまれて顔面を手で覆った。やっちまった。今日、バレンタインか!一昨年も去年もその辺の花一輪とお祝いの言葉だけで済ませていたから、今年こそはと意気込んでいたのに。
黙りこくった俺に、下から名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
「スタン?どうしたの?」
「……わりい、なんも用意してねえ」
包み隠さず答えた。くそ、ゼノあの野郎こっそり教えてくれてもいいじゃねぇか。とりあえず人のせいにしとく自分と、何も用意していない自分を心の中でぶん殴った。
今日は俺がエスコートする日だ。昔は当日に会えないことがほとんどだったが、今は普通に会えるじゃねぇか。習慣づいてなかったから完全に頭から抜けていた。
本当だったらプレゼントを用意して、レストランを予約して、花束を贈って……
「そんなのいいの!そんなの気にしてる場合じゃないから!」
しかし彼女は俺がやらかしたことをまったく気にしていない様子で、俺の口からタバコを奪い取ると背伸びをして顔を近づけてきた。
要望に応えて軽くキスをすると、相変わらずにこにこ笑って教えてくれる。
「せっかく特別な日なんだから、楽しく過ごそうよ。こんな世界じゃ、自分から積極的にいかないと楽しめないでしょ?」
割と本気で落ち込む俺に気を遣ってか、頭にぽんぽんと手を乗せてくる。
ああ、なんて優しいんだ俺のハニーは。ド忘れしてた俺を許してくれるのか。愛おしくてもう一回口付けをした。今度は深いやつ。それから全身を使って抱き締めるように、彼女を腕の中に閉じ込める。あったけぇ、身も心も温まっていく。
合言葉めんどくせーとか思ってる場合じゃなかった。彼女はもしや俺に気づかせようとしたのだろうか。マジでごめんなさい。
「あのね、スタン。まだチョコは手に入らないから……代わりの物を用意したの」
「代わり?」
「えっとね……」
目を泳がせて、口を閉じる。まさか何かプレゼントを用意したのか?俺は何も用意してないのに?さらに罪悪感が募る。
何にしても、この世界ではなかなか準備が難しかっただろう。どんな酔狂なものが来ても全力で喜んでやろうと決意していたら、小さな声で「わ、わたし」と呟く唇。
「プレゼントは、わたし……」
プレゼントは……わたし?よく聞くフレーズだが、まさか彼女の口からそんな破壊力のある言葉が出てくるとは思わなかった。予想外の言葉に目をひん剥いてフリーズしていると、もう吹っ切れたのか今度は大きな声でこんなことを言い出した。
「チョコの代わりに、私を食べて?」
「……」
すげー殺し文句。
これは殺傷能力のあるやつだ。
「ナマエ、今のもう一回プリーズ」
「だ、だから、チョコのかわりにわたしを」
「やっぱストップ」
「え?スタンがもう一回って……」
年甲斐にもなく心臓が打ち震えている。何個か歳下だからか?よくもそんな恥ずかしいことを真正面から……頼もしいやつ、俺の倒し方をきちんと心得ている。しかし彼女の甘い言葉は止まらなかった。
「チョコの甘さには及ばないかもしれないけど、今日はいっぱい甘やかしてあげる」
チョコと何を比べるって?
派手なことを言っておきながら、照れくさそうに頬を真っ赤に染める彼女。やっべ、こいつ可愛すぎ。わざとやってんだろそれ。もっと自分で自覚しとけバカヤロ、この、くそ、言葉に出来ねぇ可愛さ。
「じゃ、……いただき」
ただ抱き締めるだけじゃ物足りなくて、思う存分キスをした。甘くて甘々のやつ。も〜愛してる、俺の可愛いチョコレート。うまそうなところが多すぎるもんで、たぶん一日かけても食べきれない。