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「ナマエ」
その落ち着いた声に振り返ると、彼の人差し指の長い爪が一定の間隔をもってゆらゆらと揺れていた。まるで催眠にでもかけようとしているかのような意味深な雰囲気を纏った手招きにつられて、「おいで」の言葉通り彼の元へ歩み寄る。ゼノは少し前よりも随分と人相の悪い顔で、けれど以前と全く変わらない笑顔で私の手を取った。
「今夜、僕を待っていてくれ」
そんな直接的な言葉と共に、額にキスを落とされた。再度顔が近づいてきたかと思えば、今度は唇を塞がれた。どちらとも瞬きをする間もない一瞬の出来事だったけれど、その後の不敵な微笑みだけで私の心は簡単に鷲掴みされてしまった。ああ、もう。その顔はずるい。
「どうだい?……返事は?」
そんなの決まってる。いきなり話しかけられて開口一番にそんな顔を見せられたら、ろくに気持ちを整える間もなくまっすぐ頷いてしまうじゃない。まあ考える時間が十分に与えられたところで、結局私は頷いてしまうのだろうけど。
それにしても、これは一体どういう風の吹き回しだろう。
この世界での暮らしはもう三年目。その日を生きるための生活から、その日を充実に過ごすための生活に切り替わってそれなりの月日が経過したとはいえ……石の解除は常人では難しい条件を抱えておりそう都合よく連続しない。つまり、この少人数の暮らしでは日々の忙しさに変わりはない。
話を戻すのだけれど、普段軽いスキンシップは日常的にあるとはいえその先に進むことは滅多にない。それも全部私から誘った覚えがあるし、彼は比較的手の空いている時に仕方なく応じてくれているという印象。もちろん私と寝るのを嫌がっているわけではなく。誘われたら応えるけど、誘われなければ一生科学をしていたい、……こんな感じだろう。
彼の欲望はずっと前から変わらないし、私もよく理解している。それならどうして突然。私の考えていることは手に取るように分かるらしい。こちらから質問するまでもなく、彼はすぐに答えてくれた。
「"昨日は"、一緒に寝るだけでいいと言っていたろう。でも今朝の君は依然として不服そうなままだったから」
「……」
「ならば"今日は"、とね」
そういえば昨日こんな会話をしたんだった。
「ねぇゼノ、私一人で寝るの飽きちゃった」
「それはすまないね。ラボで一度仮眠を取ったら部屋に戻る気が失せてしまうんだ」
「……私、たまには一緒に寝たいのに」
「はは、君は随分と甘えたがりだね。年齢に見合わず」
ムカ
「もう知らない勝手にすれば」
「待つんだ、僕に弁解の時間をくれ、今のは言い方が悪かった!頼む見捨てないでくれ」
あんまりなことを言う恋人に腹を立てて足早にラボを出ていこうとしたら、当然のように肩を掴まれた。今の今まで科学道具を手にしていたはずなのに、次の瞬間には私の肩を。
「今のは、違う、違うんだ。僕は何年経っても変わらない、君のそういうところが愛らしいと思ってだね」
「別に誤魔化さなくていいから。呆れてるんでしょ、年齢に見合わないからって」
「ただの失言だ!言葉を間違えただけで決して邪険な扱いをした訳ではないよ。勘違いしないでおくれ、僕のかわいいベイビー」
「甘え方が赤ちゃんみたいって言いたいの?年齢に見合わず」
「だから!ちがうと言っているのに!君ってやつは!」
ゼノらしからぬ焦りようだと思われるかもしれないが、ゼノは問題を無意味に放置しない人だから、私がちょっとでも不穏な空気を醸し出せばすぐに解決しようとしてくるのだ。どちらが悪い場合でも。そのお陰で、これまで私たちは些細なことで言い争ったことはあれど、大ケンカに至ったことはない。
ムカついたら切り捨てる(フリをする)。そしたらゼノは即座に話し合いの場を設けてくれる。これは彼と平穏に過ごすための私なりのライフハック。ほとんどの場合、ちゃんと話し合えば解決するから。にしても今回のはゼノがひどいと思う。
「悪かった。謝るよ。だからナマエ、僕と目を合わせてくれないかい」
「ゼノは私がいなくても平気なの?」
とりあえずゼノの言うことは無視しておき、そっぽを向きながら突きつけた。私ばかりが寂しい思いをしている気がする。今に始まったことじゃないけど。
「おお、その質問にはおそらくどう答えても君は納得しないだろうな」
「……どういう意味?」
「僕の答えは当然『平気ではない』だ。君のいない世界ほどつまらないものはないよ」
「……ふーん」
「だがそれに対する君の返答は『とてもそうには思えない』……だろう?」
よく分かっているじゃない。ゼノの背後、私よりも扱う優先順位の高い科学道具たちに目をやると、ゼノは自らの体でその視線を遮るように横に一歩ずれて上半身を屈めた。近づいてきた顔に思わず身を引いたら、いつまでも目を合わせない私のことを小さく笑いながら髪を撫でてくる。神経の通っていない爪を器用に動かしながら。
「僕が日頃から素っ気ない態度を取るから、既に相当の信頼を失っていることは明確だ」
「なんで自分で分かってるのに、いつまでも直そうとしないの」
「ここだけの話、僕は君の機嫌を損ねることが得意なのさ」
「なにそれ」
「僕は愛おしいものにこそちょっかいを出したくなる類いの人間らしくてね。愚かしいと思うかい?」
「私、ゼノのそういうとこがイヤ」
「ほらこの通り。今、最低の気分だろう」
「……」
ぶん殴ってやろうかと思った。
「僕は、僕のハニーが、こんな僕でも愛してくれていることを知っている。可愛いね、君のそういうところが愛おしくてたまらない」
「……」
「しかし、いつまでもこんな態度を取り続けるようでは、君の気持ちが本格的に冷めてしまうのも時間の問題だ」
「……そうだよ」
「つまり、今すぐ僕が執り行うべきことは、君の機嫌を直すこと」
先日は強く抱きしめてほしい、その前はたくさんキスをしてほしい、さらにその前は一日中一緒にいてほしいだったね。さて今回は?そんなことを慣れたような口振りで。その通り、慣れているのだ。私の機嫌を損ねることが得意だと言う彼のせいで、私が定期的に機嫌を悪くしてしまうから。
その度にゼノは私のお願いを一つ聞いてくれる。これで話はチャラにされる。こんなことが根本的な解決にならないことは分かっているのに、それでもこの少しの触れ合いだけで少なからず満足してしまう私もいて。
……分かってる、彼の科学は遊びではない。仕事を優先しているだけ。それを勘違いしてはいけない。髪をいじり続けていた手を軽く払い除けて、目の前の交差する金属を上から下まで目でなぞっていく。
「……今日は一緒に寝てくれるだけでいい。それでいいから」
「分かった。言う通りにしよう。だが、あと五時間ほど待ってくれ」
「え?」
今、深夜の一時なんですけど。五時間もすれば朝なんですけど。ゼノはあまりにも科学の知識を掌握しすぎて、時計の読み方を知らないのかもしれない。
そっか、それなら仕方がないな。でも残念ながら、私はそれで納得してあげるほど優しい性格ではない。すぐに文句を言おうと口を開いたら、彼がピンと人差し指を立ててそれを制した。
「ああ、すまない。五分後の間違いだ。僕としたことが言い間違えてしまった」
「……五分後?五分したら来てくれるの?」
無意識にピンと背筋を伸ばした私に、ゼノは愉しそうに微笑んで私を見下ろしてくる。思った通りの反応だったのだろうか。「いい子に待っているんだよ」なんて、これじゃあなんだか私が親を待つ子供のようだ、とまた機嫌が悪くなりそうなところを軽〜く抱き寄せられた。頭に置かれた手で上を向かされた私は、遂に彼と目を合わせてしまう。
「ああ、そういうことだ。僕は君を喜ばせることも得意でね」
今そんな得意そうな顔をされるのはムカつくけど、それにしたってゼノがこんなくだらない間違いをするはずがない。ということは、もしかして私は今『下げて上げられた』のだろうか。なんて姑息な……。やっぱり子供扱いしてない?
「ほら、五分で全て片付けてしまうから、君は先に寝る支度をしておいで」
そう促された天邪鬼な私は、こんなことで喜んでいると思われないように全力で口を噤んでラボを後にした。
そしてその日、つまり昨日は久しぶりに一緒に寝た。同じベッドで、彼の温もりを感じながら。彼の匂いに包まれながら。
でも朝が来るのはあっという間で、ゼノが仕事に戻ったのもあっという間。私は正直あと丸一日くらい一緒の布団の中にいても物足りないと思っていた。
それが今朝から思いっきり顔に出ていたのだろう。私のことならなんでも知ってるゼノには、私がまだ昨日の発言を許していないことも分かっているらしい。
「だから、"今夜"は長い夜にしよう。どうだい?これでもまだ懺悔が足りないかい?」
昨夜のリベンジをしようというわけ?ここまでやればどうせ許してくれるだろうという彼の魂胆は丸見えだが、それが正しいから私はもう何も言えない。……ゼノはやっぱり私を喜ばせることが得意なのだ。認めたくないけど、だって私はゼノと一緒にいられるだけで嬉しいの。
「……いいよ、許してあげる」
「おおエレガント!ナマエならそう言ってくれると思ったよ」
ちがう。私が、気遣ってあげたの。
「僕も、君と一緒にいれて幸せだ。それだけは分かっておいて」
「……ふーん」
私は昨日の失言は許したけど、それについては認めてあげない。科学といられた方がずっと嬉しいくせにね。でも反論は彼の口の中に飲み込まれてしまった。