THE STONE WORLD


01

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「・・・・・・」

彼の手に掲げられた注射器が、照明にさらされきらりと光った。言われなくても中身が分かる。彼は、ゼノは初めて会った時からとても優しくて、誠実で、・・・私が失敗してしまった時も決して怒ることがない。信じられないほど優しいからこそ、あの注射器の中身が分かる。
私の頭は彼ほど詳しい知識を持ち合わせていないけれど、あの中身がどんな役割を果たすものなのか、それだけなら分かる。

「深呼吸をして。ほら、ナマエ。痛みを感じるのは一瞬だけだ」

それにしても、ゼノはどうしてそんなものを使うんだろう。わざわざ使う必要なんてどこにもないのに。



「ナマエ、プレゼントがあるんだ」

忘れもしない、ゼノと出会ってから初めて過ごした誕生日のこと。その日彼がプレゼントしてくれたのは、可愛くて私好みの高価なネックレス。一目で気に入って思わず手に取ってしまったけれど・・・とても私には受け取れるようなものではなくて、すぐに彼の手に戻した。
私にはとても釣り合わない。当時、私が学生だったということもある。彼は大人。しかもとんでもないエリートで・・・少し前に成人を迎えたばかりの私は、ただでさえ隣を歩くのが忍びなかったのに。だから、すぐに彼に返した。こんな高価なものは受け取れない。
ゼノは私の言葉には耳を傾けなかった。そればかりか、優しく微笑みながら私の首にそのネックレスを付けてくれた。

「ナマエ・・・心配はいらない。将来、君がこの価値以上のものを僕に返してくれればそれでいい。分かったかい?」

そう言って、ゼノは私の胸の中央に手を置いた。『ハート』に手を置いた。その瞬間は、彼の発言にどんな意味があるのか少しも理解できなくて、ただ『愛』で返してほしいのだと勝手に思い込んでいた。
ゼノったら、とっても粋なことするじゃない。お金なんかはどうでもよくて、ただ愛してほしいだなんて。好きだったから素直に嬉しかった。お礼を言って受け取った。
けれど、今ならわかる。彼はあの時・・・私の『心臓』に触れていたのだ。

将来、"heart"で返してほしい。
・・・・・・私の命で、返してほしい。

たぶん、彼はあの時そう言った。
何となくわかってきた。


「ゼノ、・・・私あなたのことが好き」
「・・・ああ、嬉しいよナマエ。僕も君を愛している」

普通だったら、愛している人の首に手をかけようとなんてしないの。それに、愛している人に殺されそうになったら、普通だったら拒絶する。
お互い普通じゃないことは初めて体を重ねた時から分かっていた。薬漬けの父に汚された体を癒すように、ゼノは優しい言葉と大きな愛で私の中にぽっかり空いた穴を埋めつくしてくれた。今まで一度もそんなことを口に出した憶えはないのに、彼は私のことなら全て分かっていたようだった。
ベッドの上にあがった途端、それまで完全に頭の隅に追いやっていたかつての記憶を思い出し・・・パニックに陥る私を、ゼノは大切に大切に抱きしめた。

「いいかい、ナマエ?過去は忘れて・・・僕のことだけを考えるんだ」

温かかった。出会いからいつまで経っても閉じこもったままだった私の心は、たったそれだけのことで絆された。私は彼の虜になった。それはもう、涙が止まらなくなってしまうくらいに。
私の名前を呼ぶ声、体に触れる手つき、キスの味、優しい瞳。それだけで分かる。彼の愛は本物だった。どうしようもなく温かかったから。私の体では受け止めきれないほどの大きな愛に襲われて、何も考えられなくなった。頭の中は彼のことだけ。私の視界に映るのは、彼の優しい笑顔だけ。

彼と迎えた二度目の誕生日。
私の最後は・・・彼の腕の中だった。



彼女の父親の体は、若い頃から繰り返された薬物・飲酒・煙草のせいで健康な臓器が一つも残されていなかった。
つまり金にはならなかった。代わりに幼なじみの暇つぶしの的となり、灰になった。

「んで、それがあんたの好きなコ?」
「ああ。・・・どうかな、彼女は振り向いてくれるだろうか?」
「んー、まァ、なるようになんだろ。とりま真摯に向き合っとけばいんじゃね」
「そうだった、忘れていた。君の恋愛観ではあまり参考にならないんだった」

僕の幼なじみは、この僕でも見とれてしまうほどの果てしない美貌を持ち合わせており、片っ端から人を籠絡させることを趣味にしていた。性別や年齢はその時々だ。彼に声を掛けられるまでもなく、全ての人間がもれなく彼に目を奪われて、ほんの少し微笑みかけられたりなどしたら・・・目どころか心まで奪われてしまう。そして、罠にかかった人間は無条件にその手中に堕ち、最後には命を奪われる。
時には彼自身が手を下すまでもなく・・・あの麗しい唇に囁かれるだけで、手が勝手に動くのだ。手が勝手に、自分に向けられた銃のトリガーを引く。
ぜひともその仕組みを解明したいものだ。彼の声には、なんらかの催眠作用のようなものが隠されているのかもしれない。もしくはその大きな瞳か、唇か・・・そもそもこの男は顔面が出来すぎている。

「応援してんぜ」
「ああ。スタン、助かるよ」

彼女を穢した獣をこの世から追放した日。別に、僕自身が直接手を汚したわけではないが・・・僕はまず自宅のシャワールームでしっかりと身を清めてから、彼女の通う大学校へ向かった。
その学校はそれなりに職場との関わりが深く、この日から僕は講義のため特別講師として呼ばれていたのだった。もっとも、彼女はその対象の学部に在籍していなかったので・・・僕がわざわざ奥の校舎まで足を運ばない限り、彼女とすれ違うこともできない。

「深呼吸するといい。それだけで自律神経が整えられ、自然と涙も落ち着く」

初めて声をかけた時、彼女は薄暗い廊下の隅で泣いていた。

「何か悩みでも?」
「あ、あの、いいえ・・・なんでもありません、失礼致します・・・」
「待って。良ければこれを」

驚かせるつもりはなかったが、彼女は知らない男の声に小さく飛び上がってそそくさと背を向けた。まるで臆病な仔犬が狼に怯えて茂みに逃げていくように、急いでどこかへ行こうとするのを僕はとっさに引き止め、ハンカチを渡した。
さあ、これを使うといい。一人で涙を流して泣いている人を見かけたら、余程の極悪非道でない限り大抵の人間が同じすることだろう。・・・しないかい?しかし僕はそうした。彼女は僕の呼び掛けにまた肩を震わせ、ゆっくりと振り返る。

「あ、ありがとう・・・」

受け取りざま、僕を見上げた彼女の瞳は照明の光が反射して白く輝いていた。

「1年の中でも特に忙しい時期だからな、今は。何かと悩み事は耐えないだろう」
「・・・・・・いいえ」
「そうかい。この年頃ならば、どうしても精神的に不安定になるのが常だ。吐き出せるものならそうした方が、楽になることもある」
「・・・・・・」
「誰でもいいんだ。身近な人でも、逆に全く関わりのない人でも。むしろ人でなくてもいい。何か思い入れのある物や、圧倒的な景色の前で声に出してみるといい」
「・・・・・・」

彼女は僕の声が聞こえているのかいないのか、それ以降は何一つ言葉を発さなくなった。窓の方を向いて、どこか一点を静かに見つめている。・・・彼女が何を考えているのかは簡単に予想ができた。こうして泣いている理由も。
形容しがたい不安が押し寄せてくることは誰にでもある。たとえば、最近はこの州で発生している連続殺人事件が世間を騒がせている真っ最中。それも歳若い大学生ばかりを狙った・・・一週間前もこの大学の生徒に被害者が出たばかりなのだ。ああ、この世は不幸が耐えないな。
僕は他人事のように考えながら懐から名刺を取り出し、彼女が抱えるノートの間に上から差し込んだ。そして微笑みかける。

「気が向いたら、ここに。僕にも仕事があるからいつでも出られるわけではないが」

それだけ言い残してその場を後にした。
再会は意外と早かった。

「やあ、二週間ぶりだね」

彼女は大学で見た時よりややフォーマルな格好をして僕の職場に現れた。職場・・・とは言ってもその建物から少し離れた場所にポツンと突っ立っていたので、僕が昼食のために『たまたま』外に出ていなければ出会うことはなかった。
あの時のように話しかけると、彼女もまた同じ反応をして僕の登場に肩を震わせた。

「今日はどうしたんだい?」
「・・・・・・あ、の」
「もしかして、僕の名刺を見て?」

分かりきったことを尋ねると、自信がなさそうに頷く。それでは、ランチは社内で済ませることにしよう。そんな言葉をわざとらしく声に出し、遠慮しがちな彼女を半ば強引に職場に招待した。

「ここにはカフェや簡単なレストランがあるが、君の好みに合わせるよ。何か食べたいものがあれば・・・」
「い、いいえ、食べてきたので。ロビーでも平気です」
「そうかい?それならいいのだが」

この仕事は表社会に立場を作るためだけにやっていることであって、本業ではない。だが社内に僕が管轄する部署を持てるほどには熱心に取り組んでいるつもりだ。ここは大きな会社なので福利厚生がしっかりしている。
そんな社内の雰囲気に緊張しながら、あちこち視線を巡らす彼女。普段入ることがないから物珍しいのだろう。何人かすれ違った僕の同僚に挨拶を返しながら、来賓用のソファーに向かい合わせに座った。
彼女は僕が尋ねる前にさっそく本題を口にした。それから、僕の思惑通りハンカチを取り出す。

「今日は、これを返しに・・・。その、先日はありがとうございました」
「ああ、そういえば。この為だけにわざわざここまで?こちらこそ礼を言おう」

驚いたフリをして指を鳴らす。受け取ったハンカチからは彼女と同じ匂いがした。これは大切に取っておこう。
さて、何も知らないフリを続けなければ。過去を掘り返すような真似をするのは心苦しいが・・・僕はあくまで初対面。臆せずありがちな発言をすることに意味がある。

「ありがとう。ああ確かに、僕は大学で君の姿を見かけた時から他の学生とは何か違うオーラを感じ取っていたのだよ」
「・・・オーラ?」
「君はその年齢に見合わずエレガントな立ち振る舞いをする。・・・『さぞ素敵なご家庭の元で慎ましく育ったのだろうな』」

彼女の瞳が揺れた。

「・・・いいえ、そんな」
「緊張せずともいい。それはそうと、やはり何か礼をさせてくれ。このまま何もせずに君を返すのは忍びない」
「・・・・・・私はそれを返しに来ただけで」
「空腹でなくともドリンクの一杯くらいは入るだろう?コーヒーは飲めるかい?」

親指で背後のカフェを示すと、彼女は小鳥のようにか細い声で「甘くしたものなら」と答えた。うん、知っているよ。いつも角砂糖を何個も入れていることくらい。僕はさっそく彼女を連れて店内に入り、今度はカウンター席に横に並んで座った。
たいした話はしなかった。僕が適当な世間話をするのに、彼女がひたすら頷くだけ。20分ほどして彼女の器が空になったのを見計らい「改めて、今日はありがとう」と締めくくった。

「ああ、最後に一つ」

彼女のことを見送る際、その華奢な肩に手を置いて引き止めた。僕はその時初めて身体に触れた。彼女が振り返ると同時に少し背をかがめて、陶器のように白い肌を近くから堪能しながら微笑みかける。

「今後も何度か君の大学を訪問する予定でね。せっかくだから周辺の地理をよく知っておきたいんだ」
「・・・・・・は、はい」
「だから、もし次に構内ですれ違うことがあれば・・・是非とも僕に近くの美味しい店を教えてはくれないだろうか?」

もちろん僕は大学の周辺どころか、彼女が暮らしている場所の地図も全て完全に頭に入っていて、その上彼女がよく行く店も施設も全て把握している。
が、それを踏まえた上で、この子は初対面の僕にどんな場所を提案してくれるのかを知りたかった。それだけだ。

「どうだい?」

彼女は一度左右に目を泳がせてから、小さく頷いてくれた。



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