あのとき。
瞳に焼き付いた彼の顔が、頭から離れない――



第2話



「あーお腹減ったぁ……」
そう力なく漏らしながら、人気のない旧校舎裏の通りを、伊東真緒は歩いていた。
両手には、真緒の背丈より大きな丸まった世界地図を抱えている。
「ほんと、渋谷先生ってば人使い荒すぎだよ……」
(いくら次の時間使うからって、昼休みに第3資料室まで行けってどうなのよ)
万年クラス委員長で担任からの頼まれごとには慣れている真緒も、ランチ前に往復10分以上かかる旧校舎の資料室まで行く羽目になれば愚痴のひとつも言いたくなってしまう。
ましてや、今では誰も使わない校舎の裏という人気のない場所なら、自然と大きな独り言になるのも無理はない。


「早く戻ってお昼食べよっと……!?」
はっきりと声に出しながら、真緒が旧体育館脇の通路に差し掛かろうとしたとき、体育館入り口の階段に座ってる人影が見えて、真緒は思わず歩みを止めた。


(え……荒北くん……?)

そこにいるのがクラスメイトかつ前の席の荒北とわかり、真緒は反射的に壁に隠れてしまう。
(何で荒北くんがこんなところに……ってか、ここで何してるんだろ)
別に隠れる必要は全くないのに、壁越しにそうっと真緒は荒北の様子を伺う。
荒北は階段に座って、前屈みに俯いているように見えた。手にはビニール袋を持って。
(え、まさか、あれってお花畑が見えちゃう薬とか?……だ、だめー!)


「本っ当に、よく食うネ……お前」
真緒が叫ぼうとした瞬間、荒北が足元に向かって言葉を発する。よく見ると彼の足元に白っぽい塊が動いている。

(猫……?)
荒北の足元にいたのは小さな白い猫だった。
どうやら、ビニール袋には餌が入ってるらしい。自分のとんでもない勘違いに気づき、思わず真緒は顔を両手で覆った。
(でも意外!荒北くんが猫に餌……)
何となくその場を離れるタイミングを失って、真緒はそのまま壁越しに荒北を見ていた。
彼は足元で餌を無心で食べている猫の頭を撫でながら、穏やかな顔でそれを見守っている。
(あんな顔してるの初めて見たかも……)
そこにいたのは、真緒の知ってる荒北とはまるで別人で。
仏頂面で不機嫌そうに見える普段の様子からはまるで想像がつかない。


(あ……)


次の瞬間、目に映った光景に思わず真緒は言葉を失った。

徐に、荒北が足元の猫をひょい、と抱き上げ、自分の目線に合わせるようにして高々と持ち上げる。

「はっ……!お前、口の周り餌だらけじゃねーかヨ!」
そう言って荒北は、笑う。
もしかしたら、それは口の端を上げただけのシニカルな仕草だったのかもしれない。
それでも、真緒には確かにそう見えた。
ただ、それだけのことなのに、真緒は荒北から視線を反らすことができないまま、その場に立ち尽くした。
まるで、一瞬、時が止まったかのように――



(さっきのって、夢じゃないよね……)
気がついたときには、真緒は全力でその場から駆け出していた。
走りながら、頭の中では繰り返し、先ほどの荒北がフラッシュバックしている。
(はぁ、びっくりしたぁ……)
息を切らしながら、ようやく戻ってきた慣れ親しんだ校舎の壁にもたれる。
走ってきたせいなのか、それとも違う理由なのか、心臓が無駄にドクドクと音を立てていた。


「ちゃんと普通に笑えるんだ……」
自然とこぼれた自分の呟きが、なんだか可笑しくて、真緒は小さく笑った。


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