第3話




「次、地図帳47ページ開いて……」
午後の教室に渋谷先生の声が響く。

結局、あれから真緒が教室に戻ってきたのは、昼休み終了10分前。当然、慌ててお昼ご飯を食べる羽目になり、味わう暇もなかった。
ママ自信作の生春巻の味とか覚えてないし。
と、チラッとその元凶になった前の席の人物の背中を少し恨めしく思いながら、見つめる。

(しっかし今日もよく寝てるなぁ……)
もはや、そっちが通常と言わんばかりに、荒北は机に突っ伏している。
可愛い猫と昼食後のシエスタはさぞ気持ちがいいんだろうな、と真緒は小さく笑った。


(荒北くんて、どんな人なんだろ……)
微動だにしない背中を見ながら、真緒は心の中で呟く。
昨日まで怖くて近寄りがたい存在だったはずの荒北が今では、興味のある人に変わっている。人間の印象なんて、本当に天気より変わりやすいと真緒は思った。
(ちょっと、話してみたいかも……)
(帰り、バイバイとか言ってみようかなぁ……)
と、考えるも、速攻無視されるイメージがリアルに浮かんで来て、授業中ということも忘れて真緒は頭を左右にぶんぶん振った。


「おい、荒北!!」

急に頭の上から、渋谷先生の声が降ってきて、真緒は思わずびくっ、と肩を震わせた。
恐る恐る顔を上げると、近くに渋谷先生が立っていて。ぼんやりしていたせいで、それがプリントを配りに来た先生が寝ている荒北を起こしたと気づくまで、しばらくかかった。

「あー……ンだヨ……シブセン」
先生の大声で目を覚ました荒北が、気だるそうに顔を上げた。

「シブセンじゃねぇよ!荒北、お前なぁ……」
半ば呆れたような顔で、渋谷先生が何かを言いかけるが、すぐに思い直したように口をつぐむ。

「まぁ、ちょうど良かったわ。荒北、お前に話があるから、放課後職員室に来い。わかったな?」
「げぇ……ンだよ、呼び出しかよ」

勘弁してヨ、と悪態をつきながら、荒北は片肘をついて頭を掻いた。
「……」
先生と荒北の一連のやりとりに、自然とクラス中の視線が集まって、何となく変な空気が教室に流れていた。


――――

直後、タイミングを図ったかのように、授業終了のチャイムが鳴る。
なぜかわからないが、そのチャイムにほっとして、真緒は溜め息をついた。

「あ、伊東。今日提出のプリント、集めて後で職員室に持ってきてくれ」
それとほぼ同時に、渋谷先生が思い出したように真緒に告げる。
咄嗟のことに、返事もできずにただ頷くだけの真緒の目の前で、渋谷先生と荒北が連れ立って職員室に歩いて行くのが見えた。



「失礼します」
真緒がプリントを持って職員室に入ると、渋谷先生と荒北が既に話し合いの最中だった。
普段なら、プリントを先生の机に置いて退出する真緒だが、何となく何を話しているのか気になって、プリントを抱えて少し離れたところで待つ。

「はッ……!マジか!」
「先生は大真面目だ、荒北」


(何の話だろ……居眠りしすぎで怒られてるとか?)
ところどころ漏れ聞こえてくる会話を、聞くともなく聞いていると、少なくとも彼にとって良い話ではなさそうだ、と真緒は思った。


「お、伊東!」
不意に渋谷先生が真緒を手招く。
呼ばれた真緒は遠慮がちに荒北の隣に並ぶ。並んでみると、思ったより背が高い。

「なぁ、伊東お前、確かJ大の推薦ほぼ内定してんだよな?」
「えっ?あ、はい……」
藪から棒な質問に、戸惑いながら真緒は答える。渋谷先生の言う通り、真緒は受験生の夏を前にして、志望校の内定がほぼ決まっていた。これも、高校3年間委員長として学業優秀で通した努力の結果である。

「なら、そんなに受験勉強に躍起にならなくてもいいんだよな?」
「あのー渋谷先生、話が見えないんですけど?」
先生の言わんとしていることが、いまいち掴めずに真緒は首を傾げる。
「あ、悪い悪い。単刀直入にいうと、伊東、お前荒北の補習に付き合ってやってくれ」
「荒北くんの補習、ですか……?」
「はァ……?シブセン、何バカなこと言ってンだヨ!こいつ全然関係ねぇし!」
渋谷先生がそう言うや否や、荒北が喚く。
「荒北ぁ、お前、文句言える立場か?インハイ出たいんだろ?」
「……ちッ……!」
だったら文句言うな、とばかりに渋谷先生にピシャリと言われ、荒北が小さく舌打ちした。
「安心しろ、伊東は優秀だし優しいぞ。それとも、俺とマンツーマンで毎日30分補習するかぁ?」
「はっ……!わーったヨ!やりゃあいんだろ!」



「おい、行くぞ」

そう言って、荒北は真緒の手首を掴むと、早足で歩き出す。
「ちょ、え、ええっ!?」
真緒は状況がよく飲み込めないまま、成す術なく荒北に引っ張られていった。
対応に困って先生を振り返ると、渋谷先生が無邪気に手をヒラヒラ振っているのが見えた。
真緒の頭に、“丸投げ”の文字が浮かぶ。


(私、まだ何も言ってないんですけど……)
という、真緒の心の呟きは渋谷先生にも荒北にも届きそうになかった。



prev next
back


azulverde