毎年、文化祭準備期間の校内はどこか特殊な雰囲気を醸し出している。
それは、トントン、と小気味よく鳴り響く金槌の音だとか、普段は味気ない薄灰色の床一面に敷かれたブルーシートだとか、嗅ぎ慣れないペンキの匂いだとか、様々な方向からやってくる非日常な刺激によるものが大きい。しかし、それ以上に一大イベントを前に、必然的に高まる生徒のテンションが校内全体に波及しているせいなのかも知れない。
そんなことをぼんやりと考えながら、伊東真緒は今年で3年目となる文化祭実行委員の責務を果たすべく、来週末に迫ったお祭りの最終準備で慌ただしい校内を見回っていた。
(あれ、いない……)
見回りのゴール地点である自分のクラスの進捗状況を確認しながら、ふと“彼"が見当たらないことに気づく。
手元のチェック表にさくさくと必要事項を記載し終えると、真緒は喧騒の教室を後にした。


「あ。サボり魔発見」
真緒が向かった先――旧体育館裏の階段の上には、予想通り“彼"が寝転がっていた。
「やべ。委員長サンに見つかっちまった」
そう言いながら、全く悪びれた様子もなく、荒北靖友は人の悪い笑みを浮かべる。
「荒北くん、ちゃんと準備には参加してください」
「へいへい」
「もうッ。ふざけない」
「わーったから、こっちきて座ればァ?真緒チャン」
階段の下にいる真緒に向かって、荒北が自分の隣を指でトントンと叩く。他ならぬ恋人にそう言われてしまえば、断る理由などない。小さくため息をつくと、真緒はゆっくり階段を上り始めた。
「くそ眠ィ……」
真緒が隣に腰を下ろすやいなや、荒北が大きな欠伸をしながら真緒の肩に寄りかかる。見た目よりもずっとさらさらの荒北の前髪の感触が少しこそばゆい。
「もしかして、徹夜?」
「あー……まァ、そんなとこォ」
「頑張るのはいいことだけど、無理はしないでね」
「んー……」
「ねぇ、そんなに眠いなら膝貸そうか?」
ごく自然に、真緒がスカートのしわをぽんぽんと伸ばしながら微笑む。
「んー……って、いきなり何言ってやがんだ!」
微睡んでいた荒北が、文字通り飛び起きる。
「あ。起きた」
「起きたじゃねぇヨ!」
んな恥ずかしいことできっか、バァカと顔を真っ赤にして頭を掻く姿は、恋人同士になってからも変わらない、ある意味とても荒北らしい反応だと真緒は密かに思った。

「そー言えば、オレらのクラス展示って何やんの?」
すっかり眠気が去ってしまった荒北が傍らのベプシのボトルに手を伸ばす。
「ええー!荒北くん、今さらそれ聞く?」
「るっせ。知らねぇもんは知らねぇんだヨ」
「メイド喫茶。って、だいぶ前に投票で決めたんだけど」
「はァ?」
「もー本当、衣装とか内装とか可愛いの。楽しみだよねぇ」
「なァ……まさかと思うケド真緒チャン接客すんの?」
「それがね、実行委員は本部の仕事で参加できないの」
「へぇー……」
本気で残念がる真緒を後目に、荒北は密かに安堵の溜め息をついた。

「そういえば、荒北くんも自転車部の催しで出れないでしょ?」
当日は、と真緒が荒北に聞き返す。どうやら、荒北の複雑な男心には全く気がついていないようだ。
「まァな」
めんどくせーけどォ、と言いながら、荒北が両手を上げて、ぐんと伸びをする。
「自転車部の催しって、たしか体験って書いてあった気がするんだけど、どんなの?」
「まんまだヨ。素人のロード体験。部員のサポートつきで」
「サポート?」
「そ。マンツーマンで教えなきゃなんねーんだヨ。マジでめんどくせぇっつの」
「荒北くんも教えるんだ?」
「まァな。一応、引退した3年最後の仕事だからサボれねェし」
面倒くせぇけどしょーがねぇ、と悪態をつきながらも意外と面倒見の良い一面を覗かせる荒北に、真緒の頬が自然と緩む。外見と態度のせいで気づかれにくいが、本当はとても優しい。そういうところが好きだなぁ、と真緒はあらためて心の中で思いを噛み締めた。
「おい、何ニヤニヤしてんだヨ」
「んー……秘密」
「うっぜ」
「やっぱり、ちょっと心配だなぁ」
「あ?」
「女の子のお客さん、いっぱい来るでしょ?」
自転車部人気あるし、と真緒が少し上目遣いに荒北を見上げる。
「はァ?だから、それの何が心配なんだヨ?」
「荒北くんが他の女の子と仲良くしちゃやだなっていう、心配ていうかやきもち?」
「ばッ!おまッ……!」
真緒の爆弾発言に、荒北が飲んでいたベプシにむせり、盛大に咳き込む。
「だ、大丈夫?」
「……しねぇヨ!ボケナス!」
何言ってやがんだ、と荒北が切れ長の目を精一杯見開いて反論する。言わずもがな顔は真っ赤になっている。
「うん。変なこと言ってごめん」
怒った?、と可愛い彼女に遠慮がちに見つめられ、何も言えなくなった荒北が舌打ちする。
「真緒チャン……――!」
沈黙を打ち破るようにチャイムが鳴ったのは、どこか思いつめたような顔で、荒北が真緒の肩に密かに手を伸ばそうとしたのと同時だった。
「やば。私、戻らなきゃ」
先行くね、と言い置くと、真緒が階段を駆け降りていく。
するりと、いとも簡単に鳥みたいに飛び立って行く真緒の後ろ姿を見つめて、荒北が小さく溜め息をつく。

「荒北くん!」
階段を降りきったところで、真緒が突然後ろを振り返る。
「夜、電話するね」
満面の笑み、と言うのがぴったりな表情で真緒が階段のてっぺんにいる荒北に手を振った。
「遅れんヨ」
いいから行け、と言わんばかりに、あさっての方を向いて、荒北が素っ気なく手を振る。


「つか、やきもちとか、いちいち可愛すぎんだヨ……バァカ」
真緒の背中が見えなくなったのを確認して、耳まで真っ赤にした荒北が頭をがしがし掻きながら、小さく呟いた。
いつの間にか現れたビアンキが、まるで相づちを打つみたいに一声鳴いた。


prev next
back


azulverde