- 序章 -
08:別離  


「……そろそろ潮時かしら」

この寺に来て既に一月が経過していた。
説法を受ける為の長期滞在と銘打ってはいたがこれ以上滞在していたら怪しまれる。
此処は一度寺を離れ、また暫くしたら訪れる方が良いだろう。

「この山を降りられるんですね」

「ええ、一度戻ろうと思いまして」

人前だからこそそれらしく振る舞うと言う事はこのひと月で大分慣れたものだ。

「江流……」

「去るのか」

「一度、下山して光明様のお話を報告しに行くのです。
私としてはまだまだ滞在しておきたい所なのですがそろそろ一度は戻らないと怒られてしまいますからね。
これが今生の別れと言う訳ではないのですから、そんな顔をしないでください」

そう言うと眉間にしわを寄せながら拳を小さく握ったのが見えた。ああちくしょうなんでこんな絶妙なタイミングで……ッ!
警戒して近付こうとしなかった野良猫が漸く懐き始めたという感じだったのにこの寺を去らなければならないなんて、光明は意地が悪い。

「貴女の旅路が安全であるように、贐です」

そう言って渡してきたのは読教をしたりする際に手にしているのを度々見かけた数珠とこっそり隠れて吸っていた煙管だ。これは、贐と言うには少々……。
それを掌の上で握らせ、見送られる際に他の弟子達は自分達の仕事を中断させてしまったので石段の所まで来ると仕事場に戻らせた。
江流だけは名残惜しそうに最後まで光明と共に見送ると言う形となったが、石段を一段降りたところで肩を叩かれ、振り返る。
すると時間にしてほんの一瞬の事ではあったが、唇を何かが掠った。

「私は貴女に喰われる訳にはいきませんから」

唇の前に人差し指を立てて「先手必勝です」とでも言わんばかりの笑みを見せた光明に思わず思考が停止した。
この私としたことが、まさか最後に良いようにされるなんて……ッ!!

丁度江流からは見えない角度ではあったが、少なくとも好意を持っているしかも子供の前でやらかすこの坊主はとんだ奴だ。

「ほら、いつまでもそんなだと江流にばれてしまいますよ」

「……ッ……!この生臭坊主!」

私の暴言は幸いにも江流以外の耳には届かず、抑えているとはいえ突然の大声に一瞬江流は驚いたようにビクリとした。

「私なりにいろいろ考えてみたんですけどねえ。
続きはまた来た時のお楽しみとしましょうか」

(あえて子供の前でする会話じゃねえだろこの野郎……!)

この破戒僧に対して最早呆れくらいしか残っていなかった。

「では、また」

二人に見送られ、私は金山寺を去った。
そしてこの別れが光明の姿を見た最後となる。


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