孤爪研磨が初めてそのカフェを訪れたのは中学生になったばかりのころだった。
幼馴染みである黒尾哲郎の頼みで男子バレー部に入ったはいいものの、思っていた通り自分にはさっぱり合わなかった。
黒尾と二人でバレーをやっていた時とは話が違う。団体行動は苦手だ。しかもペア練習で上級生である黒尾と組むわけにもいかず、初対面の同級生と顔を突き合わせてつらい練習の毎日……。
正直、研磨は辞めたかった。バレーが好きなわけじゃないし、部活動は強制ではないのだから、結局のところ研磨をバレー部につなぎとめているのは黒尾だった。

四月下旬、土曜日。午前中だけの部活終わりの帰り道、研磨は横を歩く黒尾に話しかけた。

「ねえクロ。やっぱりおれ、バレー部入らない」

入部して一週間、今ならまだ仮入部扱いだ。このまま本入部届をださなければ、研磨は自由になれる。あとは黒尾を何とか説得するだけだ。
黒尾は研磨の言葉を予想していたのだろう、さして同様せずに答えた。

「まだ一週間じゃねえか。確かに最初はきついけど、そのうち慣れっからさ」
言いながら、黒尾は研磨の背中を叩いた。努めて優しい力加減だったが、そこには逃がさねえぞとでも言いたげな強い意志が感じられた。
「人付き合いとか絶対慣れないよ……。特に先輩」
「そこはもちろんフォローする」
「……」
ダメ元はどこまでつきつめてもダメ元だ。研磨はこのまま行ってもなんだかんだと言いくるめられることを悟った。
諦観し研磨は俯いた。そのとき、研磨は目の前に落ちているチラシに気づいた。安っぽそうな紙に『NEW OPEN』の字。その真下にはアップルパイ100円引きのクーポン。
研磨はそのチラシを拾い上げ、黒尾に渡した。
「それ買ってくれたら、もう少し頑張る」

からんからん。ドアを引くと耳に心地いい重さのベルが鳴った。
店に入ってやや左の位置にカウンターがあり、その奥で男がいらっしゃいませと微笑んだ。右の方にテーブルがいくつか置かれていて、落ち着いた雰囲気の店内を見回していた黒尾が研磨をそちらへ誘導した。
黒尾がメニュー表を取り、左から右へ一通り眺める。研磨も黒尾も練習が終わった段階でも持っていっていたおにぎりを食べているが、さすが成長期。黒尾はランチメニューを一品頼むらしかった。財布を出す気がない研磨は、奢ってもらうアップルパイだけを頼む予定だ。なので黒尾がカルボナーラとオムライスで迷っている間、研磨は黒尾のその先にいるマスターらしい男をちらりと見やった。

綺麗な顔立ちの男だった。ゆえに年齢不詳。禿げる兆しのないさらさらな黒髪を後ろで緩く一つに縛っているて、下手すれば不潔に見えかねない顎髭はしっくり似合っている。身長は……目測180センチ強。メタボとは無縁のすらりとした体形で、白いシャツと黒いエプロンは彼自身の魅力を最大限に引き出していた。

「すげえイケメンだよな」
研磨が男を観察していることに気づいた黒尾が身を寄せ呟いた。うん。研磨も同意した。恐ろしいほどに完全無欠のルックスだ。正直整形だと言われた方が納得できる。
「で、決めたの」
言外に早く注文しての意を込めて研磨は問うた。黒尾はおう、と頷いて、机の端にある呼び鈴を鳴らした。

話題に出していた美中年が注文を取るようだ。テーブルまで近づいてくると僅かに香水の匂いがした。嫌な臭いではない。「ご注文は?」……声まで良いと来た。
「オムライスひとつ」「……アップルパイ、で」
「かしこまりました。少々お待ちください」
復唱することなくさらさらと伝票に書き込んみ、ひとつの笑みだけ置いてすぐにカウンターまで戻っていった。個人経営だからか、接客は意外とルーズなのかもしれない。

「お待たせしました」
少し時間をおいて、男はオムライスとアップルパイと、コーヒーを2杯テーブルに並べた。
「えっと、頼んでないっすよ」
「サービスです。そのチラシのとおり、開店祝いってことで」
彼はテーブルに乗っていたこの店のチラシを指さし、やはり微笑みながら言った。

端的に言って、アップルパイもコーヒーも、ついでに黒尾曰くオムライスも、とてつもなく美味しかった。外見といい料理のといい、ここまでだと嫌味を通り越していっそ清々しく不公平だ。

値段はもろもろのサービスを除いても、高いとは感じなかった。黒尾の食べていたオムライスが結構な量だったからかもしれない。
「いい感じの店だったな」
財布を制服のポケットにしまいながら、黒尾が言った。値段のことか、味のことか、店の雰囲気のことか……それともそれ以外のことを指しているのか、研磨にはわからなかったが、どれをとってもそうに違いないので、「そうだね」と返しておいた。明確な同意が帰ってきたので、黒尾が珍し気に片眉を上げた。


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