それから1年と3ヶ月ほど過ぎた、月曜日のこと。三日前に終業式があり、現在は夏休みだ。
カフェ『Pure Water』。初めて訪れて以降、研磨がその店を気に入ったのをいいことに、研磨は何かあるたびご機嫌取りにアップルパイを奢られている。
見事常連となったふたりとカフェのマスターは親しくなり、彼の名前が清水潤だということ、店名が彼の名字、清水そのままであることや、脱サラして店を始めたことを知った。

その日も夏休みにテンションの上がったのか、やけに練習がハードかつ意味の分からないところで当たりが強く、非常に鬱陶しかった。ただでさえ休日の朝から夕方まで練習尽くしなのに、大きな大会間近になって急にやる気を出し始めた3年生たちがここぞとばかりに研磨に文句をつけてくる。研磨のストレスは来るところまで来ていた。
それを見越した黒尾が、練習終わり、研磨を店に連行したのである。

シンプルで目立たない研磨好みの雰囲気は、果たして稼げているのだろうかと心配にさえなるけれど、客が少ないのは黒尾にとっては好都合でしかなかった。
とりあえず店で落ち着かせ、潤に(正確には潤のアップルパイに)宥めてもらおうという腹積もりだった。しかし、黒尾の計画は店に入ってすぐに破られた。
「いらっしゃいませ」
そう言って微笑んでいたのが、見知ったマスターでなく、見知らぬ少年だったからである。

「えーと、とりあえずアップルパイとコーヒーひとつで」
「アップルパイがひとつ、コーヒーがひとつですね。かしこまりましたっ」
にこり、と、不慣れに営業スマイルを浮かべた少年が注文を取って去って行った。
「……」
研磨はいつもの猫背をさらに縮め、顔を隠すべく俯いている。それを黒尾が苦笑いで見つめた。
慣れ親しんだ場所のはずなのに、落ち着かない。そんな様子の研磨を見て、黒尾は内心焦りつつ、諸悪の根源たる少年を観察した。

少年といっても研磨とそう歳は変わらなさそうだ。身長は間違いなく研磨より高いし、なんなら黒尾より少し小さいくらいだった。にもかかわらず少年と称したのは、彼の声がまだ声変わり前の、まさに少年のそれであったからである。動くたびに揺れるさらさらの黒髪と非の打ちどころのない顔立ちはどことなく潤と似ていた。

研磨はその態勢のまま動く気がないようだった。仕方ないので黒尾は新参者をもう少し見ていることにした。
少なくとも一番最後に来店した先々週の土曜日まではいなかったので、それから入ったことは間違いない。働きぶりは黒尾から見てもまったく洗練されていないが、懸命な姿と愛嬌で可愛がられるタイプだろうなと思った。研磨の苦手なタイプである。

「お待たせしました」
掛けられた声が少年声でなく聞きなれた中年ボイスだったので、研磨はそろりと顔をあげた。研磨がそのままじっと見つめると、言わんとすることを察し潤が少年を小さく示した。
「あれ、親戚の子でね。今日から働き始めたんだ。ちょうどいいから紹介しようと思ってたけど……」
「やめて」
「……だと思ったよ」
入店してからの研磨を見ていたのだろう、潤は肩を竦めた。
「まぁ初日だし、やけに張り切ってるけど、どっちかっていうと、普段は静かな子だから」
アップルパイとコーヒーを2杯テーブルに置いて、潤はカウンターの奥で皿を割った少年のもとに戻って行った。



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