先輩が泣いてる

「おはようございまーす…」
と気怠げに挨拶をし、職場の扉を開けると大の大人が床に膝を突き、声を荒らげながら泣いていた。自らの拳を激しく床を叩きつけ、わんわん泣く姿は異常である。出社早々にそのような光景を目の当たりにした名前はもちろんドン引きである。

とりあえず、自分のデスクに向かおうとするが、すれ違いざまに互いの視線が合ってしまった。急いで視線を正面に戻すが、時すでに遅し。顔が青ざめた男は地面を這い、名前の元に擦り寄ってきた。


「聞いてくれよ!名字!」


日常生活でほとんど見ることはない奇妙な動きと姿は以前社長と観たホラー映画に出てきたゾンビを彷彿とさせた。いや、目に涙を溜めながら、懇願するようにしている様子からゾンビではなく逃げ惑う住民か?などと脳天気なことを考え、現実逃避していると男は名前の足を掴んで再度涙を流し始めた。

推測でしかないが、男には男なりののっぴきならない事情があるのだろう。しかし、そんなことは名前には関係ない。ストッキングの上からとはいえ、異性に足を掴まれている感触はひどく不愉快であった。先輩に対して申し訳ない気持ちは多少ありつつも、パンプスで数回、足蹴にして剥がそうと試みる。だが、男は決して足を離そうとしなかった。


「あいつら!全然ッ!仕事出来ねぇんだよ!」
「あの、とりあえずセクハラなんで足を離してもらえません?」
「仕事出来ねぇくせに俺のことを大声で怒鳴りつけてくるし、怖いし、もうビビって仕事が進まなくて!そしたら殴られた!信じられるか!?」


男は膝に頭を擦り付けながら、口早に語り始める。名前の話が耳に入らないほど、大きなストレスを抱えていたようだ。見て見ぬふりもできるが、困っている人間を放置できるほど名前も無慈悲ではない。話の内容は、パワハラが横行している上に工事の工期が大幅に遅れている件についてだった。男は職場環境を問題視しているようだ。名前にも思い当たる節がないわけではなく、いちるの同情の余地があった。名前は深いため息をひとつした後、話を聞いてやることにした。幸い会社には男と名前以外はまだ出社していないらしかった。






「『アットホームで明るい職場です』なんて求人の謳い文句に騙されていなければ!冷静に考えたら、ブラック臭すごいよな!あ〜あ、転職活動ミスった!」
「あの広告は是非とも作り直した方が良いでしょうねぇ」
「しかも、作業員の質は低いし非常識な上に野蛮な人間ばかりでとても教育がなされているとは思えない」
「まぁ、それは、否定しませんが」


名前は事務員のため、現場に顔を出すことはあまりないのだが作業員と話す機会は多々ある。気の良い兄ちゃんが多いというのが名前が持つ印象だが、それに加えて少々荒々しい性格をしていた。良く言えば男気がある、悪く言えばおっかない。そして、上下関係はとにかく厳しい。仕事で失敗すると、先輩上司からの指導という名のおそろしい仕打ちが待っている。名前より数日早く中途採用されたこの男はそのような環境に未だ慣れないという。


「しかも部外者が工事中の建物壊そうと現場に入ってくるし、なんなんだよ、ここは!」
「確かに非常識ですよね。神室町といえど、治安が悪過ぎるような…」


先月入社したばかりだが、男の言う通りこの真島建設が普通ではないことは名前も薄々感付いていた。どうやら神室町ヒルズ計画が関係しているらしいが、真島建設が大きな事業を受け持ったという認識でしかない。
確かに、男の言う通りこの会社は他企業と比較しても奇天烈極まりないわけだが、そのことが名前に不利益をもたらすことはひとつもなかったので懸念していなかった。現場と違い、プレハブ小屋での事務作業は平穏である。朝一から作業員は出払い、ひとり静かに仕事に集中できる。警報が鳴り響いた時は扉の鍵を掛けて部屋にこもっておけば良い。つまるところ、男が抱える不満のような感情は一切待ち合わせていなかったのである。であれば、知らなくても良いことも世の中にはあるのではないだろうか。詮索は無用。触らぬ神になんとやらである。

愚痴や不満を一気呵成にまくしたてたお陰か、男は息は上がっているが徐々に気分が落ち着いてきたようだった。名前はそろそろ足の重みから解放してもらおうと、足を離してほしいと苦言を呈する。すると、ようやく男は冷静になり、自身の情けない姿に気付いたようだった。今更ながら、後輩である女性社員の足に抱きついてしまった罪悪感にかられ、離れようとしたその時部屋の扉が開いた。


「おはようさ〜ん」


軽く挨拶をしながら、ずかずかと部屋に男が入ってきた。黄色のドカヘルを被り、素肌にパイソンジャケットを羽織った異様な出で立ちをしたこの男は真島吾朗という。とてもそうは見えないが、正真正銘我らが真島建設の社長その人である。

社長の登場に男と名前はハキハキとした声で挨拶を返した。真島は「元気で大変よろしい」と満足気な様子だったが、名前と視線がかち合うと、不意に二人の元へと距離をつめよってきた。それから、頭のてっぺんから足のつま先まで舐めるように見つめた後、思いきり眉を顰めた。


「お前ら、なにやっとんねん」


真島の人差し指が眼前の二人を指す。真島の指摘により、二人は置かれている状況にはっとする。男が女の膝にぴったりと引っ付いている姿は事情を知らない第三者にはとてもじゃないが理解できないだろう。傍からみると、不倫した旦那が妻に捨てないでと懇願してしがみついているようだ。二人が現状を説明する前に真島は顔をしかめながら言葉を続ける。


「名前チャンがいくらベッピンさんやからって、男が女にすがりつくんはみっともないでぇ」


言葉と共に真島の片目から放たれる眼光は、まるで人を刺すかのように鋭利で、どういうわけか急に噛みつきそうな剣幕を見せた。これには男も咄嗟に口ごもってしまう。先程よりも顔を真っ青にして、しどろもどろに言い訳を始めた。


「いや、その、これには深い訳がありまして…」
「あ?何がや?言うとくけどなぁ、ウチは社内での恋愛は禁止や。間違うても付き合うなんてしたら分かっとるやろなぁ?」
「え?そんなこと社内規定には…」
「やかましいわ!今俺が決めたんじゃ!」


突然の宣言に対して、「そんな横暴な」「社内恋愛禁止なのに刺青は良いんですか」と正論のツッコミをしたところで真島がのらりくらりと質問をかわすことは予想できたので名前は口をつぐむ。そもそも先輩社員に好意もないので、対抗しても意味がない気がした。長い物には巻かれろ。社会を生きていくには色々と処世術が必要不可欠である。今までの社会人経験を活かして、その場を見守ることに徹底した。

しばらくの間気まずい沈黙を続けていたが、居心地の悪い立場にあった男はそそくさと仕事の準備を始め、退出のタイミングを見計らっていた。その様子を真島はじろりと横目にかけた。


「…そ…それでは、現場に行ってきます」
「おう、お前は今から仕事か」
「は、はい。始業時間より早めに着いたから名字さんと話をしてたんですよ。そろそろ良い時間なので、今から現場に向かいます」
「よっしゃ、じゃ、俺も行こかのう」
「えっ」
「社員とコミュニケーションを取るのも社長の仕事や。そう思わんか?」
「いや〜、社長自ら作業する必要性は…」
「そんな照れることないやんけ。なぁ、中途クン?」
「……え、その…、はい…」


真島の発言は同意を求めるというより、有無を言わせず命令していた。散々男が同僚の愚痴を言っていたが、実のところその人たちなんかよりよっぽど真島の方がめちゃくちゃで型破りな人物だった。たとえば、喧嘩が勃発するとする。社長としては穏便な処置をすべきなのだろうが、真島は率先して喧嘩に参加するのだ。むしろ一番心から楽しんでいた。真島の破天荒さは男の胃には拠なく負担が過ぎるのだ。名前にはこれから男が一方的に弄ばれる未来が容易に想像できた。すっかり萎縮してしまった男が真島の申し入れを拒否できるわけもなく、己が運命を大人しく受け入れる他なかった。


「ヒッヒッヒ!俺にしごいてもらえるなんてなかなかないで。今から楽しみやのう!」
「ひぃっ!」


肩を強めに組まれ、引きずられていく男の後ろ姿を見て、名前は心底憐んだ。そして、内心手を合わせて、男の無事を祈った。やっと涙が引っ込んだというのに、また滝のように流れるのだろう。そんな不憫な男の心境を知ってか知らずか真島は仕事に対するやる気が漲っており、ガッツポーズを決めている。


「真島建設、業務開始やあああ!名前チャンもちゃーんと仕事頑張るんやでぇ」
「…はい。行ってらっしゃいませ」
「おう!」


そう言って真島たちは慌ただしく部屋を後にする。名前はお辞儀をして建設作業に向かう二人の背中を丁寧に見送った。扉の閉まる音と同時に顔を上げると、先程までの喧騒が嘘のようなしんとした静けさが部屋に漂っていた。

嵐のような壮絶な朝だった。どっと疲れが押し寄せたが、時計を見ると時刻はすっかり始業時間を過ぎていた。一息つく間もなく、名前は自身のデスクのPCの電源を立ち上げ業務を開始した。