「島がずっと見えてるわ」
ロビンの言葉に、ナツメは視線を上げた。
再び現れたシーモンキーと大波を切りぬけて、次の島の気候海域に入ったとナミが言ったのが見事当たっていたようだ。思っていたよりも早かったな。ナツメはそう思った。この一味とはなんとなく長い付き合いになる気がしていたが、そうでもなかったらしい。
ナツメは階段の最上段に座り、一息ついていた。有無を言わさず大波への対処を手伝わされたことで、少しばかり汗が滲んでいる。体力には自信がある方だが、鍛えられた男たちに合わせて動いたせいだ。自分で身軽に動く事とはまた別の労力が加わる。
島の報告を怠ったロビンをギャアギャアと嗜めるルフィたちを見て、その元気さに思わず笑った。
「さっきの船気にならねェか?」
ウソップが思い出したように首を傾げた。大波に襲われた際にすれ違った船のことだ。帆も旗もなかったその海賊船は、ルフィが舵を切れと忠告すると、途端に「誰に命令してんだ」だの「使えねえ奴ばかりだ」だのとお互いを罵りはじめ、終いにはそのまま波に飲まれていった。
「海賊戦でもやって負けたんだろ」
「いやいや、それがよ…!!」
その疑問をゾロがさらりと流そうとするが、ウソップは食い下がっている。
男たちの談義に耳を傾けていると、不意に茶色のもふもふしたものがナツメの視界に入ってきた。
「大丈夫か?」
「…………」
「お前、水飲んだ方がいいぞ」
「………………」
「? オーイ?」
「…………………ぬいぐるみが…喋った」
ふわふわの毛皮にピンクの帽子を被せた、二足歩行の二頭身。
あまりに愛らしい"なにか"を、ぬいぐるみだと思っていた。気にも止めていなかった。まさかその"なにか"が意思を持って動いているとは思っていなかったのだ。ましてや話すなど。
しかし、こうして目の前にしてしまえば、そういえばあの時の声は、あの時には、などとこのぬいぐるみに意思があることが明確なシーンが思い出される。自分でも信じられないレベルのひどい見落としに、ナツメは思い込みの恐ろしさにゾッとする。偉大なる海では、こういう生き物は当たり前に存在しているのだろうか。
「ぬいぐるみじゃねェ、非常食だ」
理解と謎の混沌に思考が持っていかれかけたところに、一杯の水が差し出された。ぬいぐるみから水のはいったコップ。コップからそれを持つ手を辿って顔を上げると、咥え煙草が目に入った。帽子のツバが邪魔をして鼻から上が見えずにいると、コップがグイとナツメの目前に寄せられる。
「ったく、こんなんでへばってんじゃねェよ」
「あ…ありがとう」
頼みもしないうちに渡された水を、ナツメは素直に受け取った。それを見たサンジはどこか居心地悪そうに顔を顰める。しかしお互いの顔は相変わらず見えておらず、ナツメの意識は「非常食じゃねぇッ!」と怒るチョッパーへとすぐに逸れる。
「ごめんな、あー、えーっと」
「チョッパーだ」
「悪かったよ、チョッパー」
「気にすんな!おれはこの船の医者なんだ。なんかあったら言ってくれよ!」
「医者?へぇ……」
話すだけでも珍しいが、医者だというチョッパーにナツメは再び目を丸くする。
「たいした反応じゃねェな。喋る鹿だぜ?」
チョッパーを見てここまで反応が薄いのは珍しい。ぬいぐるみだと思っていた事がまず可笑しいが、それが本物の鹿だと言われたらもっと驚いてもいいだろう。もちろん、今まで会った者たち全員が大きく反応してきたわけでは無いが、自分たちが見たときはバケモノだと大いに騒いだこともあって府に落ちなかった。
「ああ、いや…グランドラインならチョッパーみたいなやつも珍しくないだろ?」
「何言ってんだ。ヒトヒトの実を食った鹿なんかゴロゴロいてたまるかよ」
「は?なんのWミWだって?」
「ヒトヒトの実だよ。悪魔の実さ」
「悪魔の実…」
「ま、悪魔の実を食ったって奴ならグランドラインじゃあ珍しくもねェ。現にルフィやロビンちゃんだって能力者だ。イヌイヌの実を食った銃っつーのもいたくらいだしな」
「実を食った、銃……?」
サンジはアラバスタで敵対した能力者たちを思い出し、うんざりした様に頭を振った。
それにしても、とサンジは足下に座るナツメを見下ろす。取り繕うように言われた「チョッパーみたいなやつが珍しくない」というのはどういう意味だろうか。悪魔の実は一種類につき一つしか存在しない。ヒトになった動物は、チョッパーしかあり得ない筈だ。それとも自分たちが知らない場所には、似たような生物が存在するということか?勘弁してくれ。
サンジは同時に、ナツメの悪魔の実に対する反応にも違和感を感じていた。この時代、悪魔の実なんて赤子でも知っているようなものなのに、まるで初めて聞いたかのような呟き方は何なんだ。
「お前だって何かしらの能力者は見たことあんだろ?」
「…あー、そりゃ…だってそれが、」
「おい!みんな聞いてくれ!」
ナツメが何かを言おうとした瞬間、ウソップの呼びかけがそれを遮った。ナツメの言葉はそのまま続くことなく、帽子のツバがウソップの方へ向けられる。
もう少しでコイツ自身の話が───サンジは小さく舌打ちした。
害は無さそうなものの、船に乗せている以上何も分からないのは不安の種になりかねない。少しでもナツメ自身の話を引き出そうと思っていたのだ。そして幾つかの疑問が浮いてきたところだったのに……
「チョッパー!ウソップが『島に入ってはいけない病』だ」
「それは治せねェ」
「ははっ、何だそれ」
サンジが台詞を先回りし、チョッパーから鋭い答えが返ると、ウソップは泣く泣く抵抗を諦める。聞いたこともない病名やコントのようなやり取りに、ナツメはまた笑っていた。
船に乗り込んできた時こそ勇ましく好戦的であるようだった男が、いざ共に行かんとなればどうだ。遠慮がち、控えめ、謙虚とも言えるような姿勢。終いには笑い方まで柔らかときた。こんなナリでよくこの海を渡れているもんだ、とサンジは感心する。いや、戦える自信があるからこその余裕だろうか。
ナツメが船にいるのは、もうすぐそこの島までだ。結局、サンジがナツメについて得た情報は何一つ無かったが、揉め事や面倒が起きることは無いだろうとは判断できた。そして、別れ際の想像も難しくない。
きっとナツメは、律儀に礼を言うくせに一度も振り向くことなく去っていくだろう。