1. ふるえる呼吸に色はない



朝、目が覚めた時に波の音が聞こえること。
立っている場所が微かに揺れている気がすること。
扉の向こう側で男の人達の声が響いていること。


何もかもが違う今に、私はまだ馴染めないでいる。





 朝、寝ぼけた頭がゆっくりと状況の輪郭を整えていく。私が今どこにいるのか。まだこの数日では脳に刻まれていないのだなと思う。

 前の生活よりも少し余裕のある朝の時間。
 ナース長に貰ったお下がりのシャツと自前のジーンズに着替えて、これまたお下がりのエプロンを身につける。ここでの私の制服だ。


「おはよう、月美」


 身嗜みを整えて部屋の外に出ると、すぐに声を掛けられた。ここは人が溢れるほどいる。人がいない場所の方が珍しいくらいだ。残念ながらまだ全員を覚えられている筈もなく、この人も誰かは分からない。

 おはようございますと言うと、見た目からは想像できない爽やかな笑顔を返してくれる。名前を知りたいけど、すれ違い様なので流れるように別れた。

 私も爽やかに笑えていますように。



 さて、最初に向かう先はいつも食堂だ。

 仕事を与えられた翌日、朝食を一杯の水で済ませたことを驚くほど怒られた。朝は食べない…というより食べる時間がない生活を送っていたので(食事の時間があるなら寝ていたかった)、私にとってはいつもの事だったのだが、どうにもそれは許されなかった。
 それから朝起きたらまず食堂に行き、厨房を仕切っているらしい四番隊の誰かしらにチェックされながら朝食を取っている。海賊船でスープやフルーツという優しい朝食を食べさせてもらえるとは。元の世界より贅沢かもしれない。

 私の部屋は船の中でも海に沈んでいる部分の為か、窓がない。だから食堂の窓からの景色は、その日初めて見る外の様子だ。今日も快晴。


「よォ、月美ちゃん。食後の紅茶は飲むか?」

「あ、おはようございます…」


 パイナップルの最後の一欠片を頬張ったタイミングで視界に香り立つポットが現れる。それを持つ手からなぞる様に顔を見上げると、四番隊隊長の笑顔に辿り着いた。いつもと変わらない笑顔だ。


「あ……い、いははひあう」


 いただきますと言いたかったのはお分かり頂けただろうか。

 食べたらすぐに洗濯をしに行こうと思っていたけど、笑顔に押し負けた。お世話をしてくれている人の好意を早々に断れるほどの度胸が無いのだ。

 お礼を言ってカップを受け取れば、淹れられた紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。


「わ、いい匂い。ジャスミンですか?」


 そう息を吐くと、隊長さんははち切れんばかりの笑顔で私の目の前に勢いよく座った。きっちりとキメられたリーゼントがぶつかりそうで少し後ろに仰け反る。


「分かるか!?やっぱ月美ちゃんみたいな繊細な感性を持った子に飲んでもらうのが一番だ!!!」

「そうですか…?」

「そうですそうです!!これな、今日ナース達に淹れてやろうと思ってたんだけどよ…あっ、勿論月美ちゃんにもな!」

「はあ、ありがとうございます」

「んでな、さっきエースが『俺も飲んでみてえ〜』って言うから飲ませたら…なんて言ったと思う?」


 一人で百面相しながら喋る隊長さんは、今のところ数少ない私の話し相手だ。この船に乗ってから何かと気に掛けてくれる面倒見のいい人。
 毎朝こうして話すわけではないけど、話せると少し嬉しいなと思う。


「え、うーん……いつもと一緒、とか?」

「そ〜〜なんだよっ!『何が違うのか全然分かんねえ』って言われてよお!そりゃあ野郎共にそんなことハナから期待しちゃいねえけどよ!!」


 おいおいと泣き出す隊長さんには同情するけれど、隊長の仲間内で紅茶の違いが分かる人の数など知れているだろう。
 まあでも、ジャスミンティーの香りが分からないのも問題な気はする。”エース”のことは知らないが、相当味に鈍いのだろうか。

 隊長さんはずびっと鼻をすすると、でも、と顔を上げた。本当に泣いてたんだ。本気度がすごい。


「月美ちゃんに飲んでもらえて良かったぜ。これでジャスミンティーも浮かばれるってもんだ」

「隊長が用意してくれるものってなんでも美味しいから興味が湧いたんですよ、きっと」


 紅茶に限らず、ここで食べるご飯は本当にどれも美味しい。この異世界で、食べ物に関する悩みなどこれっぽっちもない程に。
 慣れない環境の中で食事に困らないのは、正直かなり救いになっている。

 何時間か後の昼食に思いを馳せながら紅茶を一口飲む。もう少し仲良くなったら、淹れるコツとか教えてもらいたいな。


「まったく、嬉しいこと言ってくれるねぇ」

「ふふ、本当ですよ」


 さあ、そろそろ洗濯に行かないと。

 もう少しここにいたい気持ちもあるけど、スケジュールはなるべく崩さないようにしたい。迷惑を掛けたくないし、仕事にルーズだとも思われたくないから。…そんな事思う人はいなさそうだけど。


「隊長、私そろそろ行きますね。ごちそうさまでした」


 食べ終えた食器を重ね、隊長さんに頭を下げる。
 自分から切り上げたのになんだか惜しく思ってしまう。多分この隊長さんがあまりに優しくしてくれるからだ。この人は安心をくれる。我ながら甘ったれだ。


「なあ、月美ちゃん」

「はい?」

「隊長って呼ぶの、やめてくれよ」


 頬杖をついた隊長さんが笑顔のまま言った。


「ほら、"隊長"ってのはこの船の上じゃあ16人もいるわけだし?誰を呼んでるか分かんねえだろ?」

「あ、そ、そうですよね…すみません」

「それに他人行儀じゃねえか。俺はちーっと寂しくなっちまうぜ」


 さっきよりも幾らか眉を下げて首を傾げる隊長さんは、私の視線を逃さない。惜しいと思った筈なのに、今はその視線から早く逃げ出したくなった。

 この人はつけ込み方を知っている。甘くて柔らかくて、弱いところに触れてくる。強く踏ん張っていないと、簡単に雪崩れ込んでしまいそうだ。
 

「あ…じゃあ、え、と……サッチ隊長…」


 そう呼べば、隊長さん…もといサッチ隊長は少しの間を置いて立ち上がり、私が持っていた用済みの食器を取る。


「まっ、今日のとこはそれで許してあげるよ」


 そう言って軽やかにウインクを残し、厨房の方へ向かって行った。私はそれを上手く受け取ることもできずに立ち尽くす。

 そして、ようやく解放された瞳にゆっくりと瞼を下ろした。





見え隠れする鋭い視線を躱すこと。
計られているような言葉の駆け引きに応じること。
地につけず、彷徨う気持ちを隠すこと。

全てが違ってしまった今。


私はまだ、馴染めないでいる。

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