そこに含まれた愛を識る

 煤けたスーツをばたばたとはたいて、警察への引き渡しを終えた私達は、いつもより少し早目に現場から撤退していた。拘束されるまで犯人を見つめ続けていた彼の背をお疲れさまと軽く叩いて、お前もなと背中を叩き返される。傍から見たら恋人同士とは見えないだろうが、一応そんな仲になって数週間。始終こんな様子で、愛だの恋だのという言葉から縁遠く、好きだという言葉一つも満足に聞いて来なかった私は、未だに彼の気持ちを計りかねていた。それでも一応、恋人のはずなのだ。久しぶりに会えたというのに変わらぬ態度の彼の背に、何か声をかけなければと口を開く。

「今夜は鍋食べたいなって思ってるんだけど」
「ん?鍋か、いいね」
「イレイザー、良かったら食べにこない?」
「邪魔していいのか。なら事務所に寄ってから行くよ」

お前の作る飯は美味いからね。と、ひらひらと振られる手が完全に夜の闇に消えていくのを見守って、まだ冷える夜道にブーツの音を響かせながら、私は夜空に向かって大きなため息を一つついた。毎回こうやって食事を出汁にしてしまう自分が良くないこともわかっているのだけれど、怖くてつい何かしら口実を用意してしまう。結局こうやっていつも自分の首を絞めては、宙ぶらりんの気持ちのまま二人で食事を繰り返しているのだ。足に馴染んでいるはずのブーツが、今日はやたらと重く思えて、カツカツと爪先を地面に二回ぶつけ、夜の道を足を引きずるようにして帰った。

着替えて家のインターフォンを押した彼を迎え、いつものように食事をする。食べるだけだと据わりが悪いという彼はいつも手土産にデザートを持参してくるのだが、今日はこの後仕事があるとかで、詫びのつもりか有名チョコレートブランドの限定アイスを持ってきてくれた。

「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様でした」

 綺麗に雑炊まで食べきった鍋を片手に、彼が流しへと食器を下げる。別にそのままで良いのだけれど、それぐらいやらせてくれというので最近は甘えるようになったのだ。食器を洗ってほんの少ししたら、きっと彼は帰ってしまうだろう。教師の仕事で合宿の引率をしていたという彼に会えたのは久しぶりで、気付いたら洗い物をする彼の後ろ、彼の大きな背中に手を伸ばして、食事をした後の食器を洗う彼の腰に手を回していた。

食器を洗う手が止まり、水が流れる音だけが響く。ああ、やってしまったと思ったけれど邪魔だとは言われなかった。再び食器を洗うカチャカチャという音にほっと息をつき彼の大きな背中に額を当てると、いつもは丸まった彼の背が伸ばされて、私の体に沿うように背中にほんの少しだけ体重がかけられた。

「重い重い」
「そんなに体重かけてないだろ、ちょっとこうしててくれ」

彼も少しは寂しいと思ってくれていたのだろうか、確かめてみたい気持ちはあるが、何より鬱陶しがられることも少しだけ怖い私は口を噤んで彼が洗う食器がたてるカチャカチャという音に耳を傾けて目をつむる。少しだけかけられた重みが緩み、ぐりぐりと肩甲骨のあたりに額を擦りつけた私に、彼が少し笑ったのを体の振動を通して感じながら体の力を抜いた。何を考えているのか分かりにくい彼に一抹の不安を抱えていても、私はこの穏やかな時間が好きだった。

「終わったよ」

 離れろ、と言われたわけではないけれど、するりと手を解いて彼の隣に立ち、彼が洗ってくれた皿や鍋に手を伸ばす。引き出しの中から取り出した大判の布巾で皿を拭くと、彼が食器棚に仕舞ってくれるのがいつものお約束になっているので、呑水とお茶碗を二つ重ねて彼の傷だらけの大きな手に渡した。鍋は火にかけて水分を飛ばせばいいのだし、これで洗い物は終わり。メニューのおかげか今日は洗い物がとても少ないなと少しだけ残念に思う。

「もう終わりか」
「うん、もう全部洗ってもらったし拭くものもない」

 手の水滴を拭いながら言うと、彼が下唇を突き出して微妙な表情のまま目の下をかいて、
そうかと一言呟いた。何か言いたいことがあった時にする表情なのはわかっていたが、彼はそんなに洗い物が好きだっただろうか。それとも、まだくっついていても良かったのだろうか。こういう時に聞いても答えないことを知っている私は、アイスを食べようと誘い彼の背を押しソファに腰かけさせて、彼の真意を確かめるように再び彼に身を寄せたのだった。

そうやって何も明確な言葉にしないままソファーでくっつき共に過ごして、帰って行く彼の背に向かってまたねと手をふる。ゴミだし用のサンダルをつっかけて、暗闇の中に半分溶け込んだ彼の背に、気付いたら「あのさ」と声をかけていた。また、食事を出汁にしてしまいそうになる自分を奮い立たせて、暗闇の中で表情の見えない彼を見つめると、彼が足を止め、街路灯から降る灯りの下、その双眸を瞬かせた。

「あのさ、私明後日休みで…それで、特に何か作るわけじゃないんだけど」
「ああ。明後日か、俺もオフだな」
「ほんと?!予定ある?…家にいってもいい?」

 逡巡するかのように視線を落とした彼に息をのむ。光が目に染みたのか、瞳を閉じて苦笑した彼が手の平で明かりを遮りながら、再び目を上げてこちらを見やりながら口を開いた。

「いいけど、俺んちじゃ何もないぞ」
「…消太がいるじゃん」

 一緒に居たいのだ、と伝わってくれただろうか。もっと分かりやすい言葉にしなければダメだろうか。先ほど振り払った不安が心に靄をかけはじめてしまう。気持ちをうまく切り替えられないまま、彼が口を開く。

「それなら俺がこっちに来るよ」
「…じゃあ何か食べたいもの作ろうか」

 ああ、またやってしまったと思いながらも、口を滑り出した言葉は止められない。これじゃあいつもと同じじゃないか、ただ一緒に居たいだけなのに。へらりと笑って見せた顔を見て、彼がなんとも言えない顔をする。驚いたような、失敗したというようなその顔に不思議に思って返事を待つと、バツが悪げに小指で顔の傷をかきながら、彼がはっきりこういった。

「お前がいるだろ、飯が無くてもそれで充分だよ」

じゃあまた明後日といって穏やかに笑う彼に息を飲む。ひらひらと振られる手に手を振り返し、小さくなってゆく背を見守って、私は自室のドアを閉めた。大きな姿見の前でサンダルのつまさきをトントンと鳴らす。覗いた鏡の中の私は頬を染めて満面の笑みを浮かべていた。

いつも通り、愛だの恋だの好きだのと、わかりやすい言葉は無かったけれど、今は少しも寂しさも不安も感じられなかった。なんとなくだけれどわかったからだ、彼の言葉の端々には見えない気持ちがきっと沢山含まれていて、そんなわかりにくい言葉たちが彼の等身大の愛情表現なんだろうと。

 ぽかぽかと暖かくなった私の胸に、すとんと一つの答えが生まれた。彼が言わないのなら私が口に出せばいい。それには応えてくれるはずだから。

愛してるとか好きだとか、そんな言葉が含まれていなくても、彼の何気ない一言にはきっと。